2010年12月7日(火)
真吾オジサンの雑感
「倖田來未さん」について。
つい先日、中村うさぎさんの「愛という病」(新潮文庫)という本を買ってきました。
中村うさぎさんの上梓された文庫本を、ほとんど全て持っている真吾オジサンなのですが、
この「愛という病」も面白いです。 (← 嘘ではありませんよ。 ^^)
ぜひ、買って読みましょうね。 ^^
この「愛という病」の最初の方に「倖田來未さん」のことが書いてあります。
真吾オジサンは、「へ〜」と感心したのです。
ちょっとだけ引用させて頂きますね。 ^^
倖田來未が表現しているのは、あくまで男の視線を中心に据えた従来の「お色気」「セクシー」「エロ」概念のパロディであり、挑発なのである。
だからこその露出過多、だからこその下品だ。
「チラッと胸の谷間が見える程度の抑制の効いた品のいいお色気」みたいなオヤジ視点のヌル〜いセンスにむしろ喧嘩売っているワケですね、彼女は。
要するに、露悪なのよ。
そういう意味では、非常にゲイ・テイストに溢れた表現センスだと思う。
あえて攻撃的に過激に「エロ」を表現することで、逆に男の鑑賞物であることを拒否している・・・
そんなヒネリを理解できない頭の固い人々が、老若男女を問わず、彼女を「露出をセクシーだと勘違いしているバカ女」だと感じるのだ。
(略)
これまで、「男の鑑賞物であることを拒否する」手段は、「性と肉体の隠蔽」が主流であった。
肉体の露出を極力避けて男のようなパンツスタイルを選び、ノーメイクあるいは必要最小限の薄化粧で髪型もシンプル、
間違っても巻き髪やボディコンミニスカートやゴテゴテメイクはしない、というスタイルだ。
だが、そのスタイルは、女の中の「女性嫌悪」をますます強めるだけである。
女が女の主体性を持つために、どうして女であることの肉体的・性的表徴を隠蔽せねばならないのだ?
むしろ、たわわなオッパイやむっちりした太腿を露出し、女の性や肉体を誇示して「女であること」を過激に楽しんでみせれば、
「主体的な女」という存在を恐れる男たちは逃げ腰になるか唾を吐きかけるかのどちらかで、そのどちらにせよ、
彼らは私たちの肉体を「鑑賞の対象物」から外してくださるのだ。
そう、私のデリヘルのようにね。
(略)
なのだそうです。
真吾オジサンは、倖田來未さんのアルバムを一つ持っているのですが、ここまで思いが至りませんでした。
(ちなみに、真吾オジサンは、実は「キューティーハニー」「バタフライ」のほか、10曲くらいは歌えるのです。 どうだ、凄いだろう。 ^^)
まだまだ、お尻が青かったようです。 ^^;