2010年3月31日(水)
真吾オジサンの雑感
再び「声明」について。
法蔵館さんが、岩田宗一著の「声明(しょうみょう)は音楽のふるさと」という本を出版されておられます。
この本は、真吾オジサンのお勧めの本です。
この本の一部から引用いたします。
「また『正覚の大音は響、十方に流る(わたる)』とあります。
これはよく知られている『嘆仏偈(たんぶつげ)』の一節です。
如来の覚りを述べる声はどこまでも響きわたって宇宙の隅々にまで遍満するといっています。
さらに「清風、時に起こり五つの音声を出し、微妙(みみょう)の宮商、自然にあい和す」とは、仏教と音楽について語られるときによく引用されることばです。
これは宮商角徴羽という五つの音でできている音楽が溶け合った響きをし、心を和らげてくれるということをいっています。
続けて『無量寿経』には『耳根は清徹(しょうてつ)にして』『六根は清徹にして』とあります。
また、『その楽の声は、法音にあらざることなし。清揚・哀亮にして、微妙・和雅(わげ)なり十法世界の音声のなか、最も第一となす』とも述べています。
釈尊や如来の説法をどこまでも済んだ耳と心とで聴きとることを意味していますが、その説法の声そのものが『清徹』であることが大前提といえましょう。
仏教音楽の理想的な響、姿としてこの『清徹』こそ最も言い当てたことばだと思います。
このひびきこそ『如来の声』であり、仏教音楽の目指す理想のひびきです。」
「声明を一言でいいますと、仏教の伝統的儀式音楽のことです。
すなわち儀式で僧侶がその進行と不可分の関係で歌う歌や朗誦のことです。
儀式に携わる僧侶の方たちの意識は別としまして、声明は歌われ朗誦される音楽であり、声楽です。
歌う声明とは儀式を行う場所に本尊や諸仏・諸菩薩を呼んだり、それぞれの徳を称えたりするところのいわば『讃歌』です。
朗誦とは釈迦の教えを説いた経やそれについて論議した文章の類を読み上げることであり、なかには儀式の目的や願い事を述べた文章もあります。」