2011年5月26日(木)

 

 

 

真吾オジサンの雑感

 

 

 

 

「理一分殊」について。

 

 

 

 

この雑感を御覧の貴方、「理一分殊(りいつぶんしゅ)」ということばを御存知でしたか? ^^

 

 

ご存じの方は、もう今日の雑感には用事はないことになることでしょうが、

 

御存じではなかった方は、ぜひ、この機会に憶えておきましょうね。 ^^

 

 

この「理一分殊」は、「程伊川(ていいせん)」によって言われて、「朱熹(しゅき)」に継承された思想なのだそうです。

 

この「朱熹」とは「朱子」のことで、「朱子学」の「朱子」です。

 

 

 

知っておいて頂きたいことは、「理一」と「天理」との関係です。

 

 

道学は、万物一体観が特徴とされているらしいのですが、これをもともとは「天理」と言っていたらしいのですが、

 

程伊川が、この「理一」で、「理」の全体性・統一性と個別性の両側面を包括的に把握しようとしたようなのです。

 

 

こういうことのようです。

 

「岩波 哲学・思想事典」から引用いたしますね。

 


 

物(事例・事態を含む)には必ず理があり、それが各々の存在を律し、一定の類型化のもとに個別を特徴づけ、個別的な秩序を成り立たせている。

 

しかし、一方でこうした個別的な「理」が実は「一理」であり、全体としての万物の秩序は、この「一理」によって貫かれていると考えられた。

 

この「理」の一貫性こそ「格物窮理」を理論的に保証するものに他ならない。

 

(略)

 

 

朱熹は、程伊川の「理一分殊」の概念を存在論の文脈に組み入れ、まさに宇宙論的な規模でこれを再構成した。

 

一物には一物の理があるが、それは天地万物=宇宙の普遍的な「一理」と同じだとされる命題は、正確には彼によってその完成を見た。

 

その際、すべての「理」を統括する本源的な「理」が太極として措定され、万物がそれを分有するかのごとく説明されたため、

 

「理」が実体視される傾向をもたらしたが、本来的には、個々の限定された事物の特殊性を包括した天地=世界の、本然的な秩序・原理の首尾一貫性を表す概念と考えるのが妥当であろう。

 


 

 

ここに出てくる「太極」とは、韓国の国旗の「太極旗」の「太極」です。

 

 

 

ついでに、「格物致知(かくぶつちち)」についても書いておきましょうね。

 

 

広辞苑には、

 

【格物致知】・・・「学問・修養法の一。㋐朱子学では、後天的知を拡充(致知)して自己とあらゆる事物に内在する個別の理を窮め、究極的に宇宙普遍の理に達する(格物)ことを目指す。」

 

と書いてあります。

 

 

 

「理一分殊」と「格物致知」、どちらも憶えておきましょうね。 ^^

 

 

 

 

 

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