2011年7月5日(火)
真吾オジサンの雑感
「本地垂迹説」について。
本地垂迹説は「ほんじすいじゃくせつ」と読みます。
パワー・スポットが衰えも知らることもなく流行しておりますが、この「本地垂迹説」のことも知っておきたいですね。
神社・仏閣にお邪魔させて頂くときに、このことを御存じですと、より興味を引かれることも多いのではないかと思います。
「岩波 哲学・思想大事典」には、こう書いてあります。
本地垂迹説 ほんじすいじゃくせつ
外来宗教である仏教の仏・菩薩と日本の神との関係を説明するために考案された概念。
すらわち、<本地>としての仏・菩薩が日本の衆生(しゅじょう)の能力や性格に適合するよう姿を変えてあらわれたのが
<垂迹>(迹【あと】を垂れる意)としての神であるという解釈であり、
したがって本地/現象、普遍/特殊、永遠/歴史、の関係に相当する。
具体的には伊勢内宮アマテラスの本地が慮舎那仏【るしゃなぶつ】(大日如来)とされ、
熊野本宮の本地が阿弥陀【あみだ】とされた類で、
院政期から鎌倉期にかけて日本の主要な神々にはことごとく本地仏が配当されていった。
なお、こうした神々の相互補完関係が認められていく背景には<神仏習合>という歴史的事実があった。
つまり仏教初伝来の排仏・崇仏論争を経過したのち古代国家は仏教思想と儀礼の導入を試みていくが、
そのとき直面した課題の一つが外来の仏教と在来の神祇信仰とのあいだにどのような分業・協調の体制をしくかであった。
当初それは神前読経、神宮寺の建立、神に対する菩薩号の授与などを通じて、迷い苦しむ神を仏が救済するという形式をとった。
しかしその後次第に神の地位は上昇していき、その結果として神は仏が垂迹したものだという認識が形成されていった。
このように神仏関係を仏を主、神を従と見る説を仏本神迹(あるいは仏主神従)の<本地垂迹説>というが、
仏教徒の手になるこの説に対抗して、中世の神道家は神本仏迹(あるいは神主仏従)の<半本地垂迹説>を提起することになる。
いずれにせよ、日本の神仏関係はどちらを主体と見るかの相違はあっても、両者の対立ではなく協調・融和を志向する神仏習合を基本としていた。
またこのように神仏を何ものかのかりのあらわれと見る思考はとりわけ「神道集」「御伽草子」、説経など本地物【ほんじもの】と呼ばれる物語文芸の中心的モチーフとなり、
苦難をうけた人がついに神仏としてあらわれるという庶民信仰の素地となっていった。
どうぞ、ご参考に。 ^^