2011年7月6日(水)

 

 

 

真吾オジサンの雑感

 

 

 

「本地垂迹説」について。 その2

 

 

 

 

さて、今回の真吾オジサンの雑感も「本地垂迹説」について書きます。

 

今日も、「岩波 哲学・思想大事典」から引用させて頂きますね。

 

 


 

【本地と垂迹の淵源】

 

 

日本において神仏関係に適応させた「垂迹」の語の初出は貞観1年(859)の惠亮(えりょう)の上表文(三代実録)であるが、

 

本格的な本地垂迹思想の初見としては承平7年(937)の太宰府牒があげられ、

 

そこには「彼の宮(宇佐八幡)、此宮(筥崎)、其の地異なりと雖も、権現・菩薩、垂迹猶同なり」とあり、

 

<権現(ごんげん)>の語が見いだされる。

 

 

さらに本地や垂迹という概念の由来を中国仏教に求めるならば、

 

僧肇(そうじょう)の「注維摩詰経序」に「本」と「垂迹」の関係が「本・跡殊(こと)なりと雖も、しかも不思議なり」と説かれていることや、

 

智(ちぎ)によって確立された中国天台の教学に淵源を見ることができる。

 

 

特に智(ちぎ)においては「法華経」を本門と迹門(しゃくもん)に分類した上で、

 

同時に釈迦を根源的な久遠実成(くおんじつじょう)の釈迦と印度に出現した釈迦とに分け、

 

それを本迹の関係で論じ、その狭義には「従本垂迹」という語が散見する。

 

 

その他、「大日経」の注釈書(「大日経疏」巻3、「大日経義釈」巻3)には、「自本垂迹」と「行因至果」の二種の曼荼羅(まんだら)を挙げ、

 

前者は本地たる大日如来より曼荼羅の諸尊を流出する意味であり極めて近い概念を示す。

 

 


 

 

 

こういうことも御存じですと、所謂、パワースポットのみならず、時代劇を御覧になられるときでも、より深く楽しめると思いますよ。

 

 

徳川家康を「権現様」と呼ぶシーンを、時代劇で御覧になられたときなどは、ぜひ、この雑感のことを思い出して下さいね。 ^^

 

 

 

 

 

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