2012年7月15日(日)
真吾オジサンの雑感
勝負と自分について。
「自分」って、「自らの分」と書きますよね。
この「分」は「分相応・分不相応」というときに使う「分」ですよね。
ところで、勝負の世界の住人って、どうも口が悪い人が多いですよね。
あれは良くないことですよね。
「俺は、奴に勝ったぞ!」
まあ、こんな調子ですよね。 ^^:
こういうことを思えば、例えば将棋の感想戦のときに、
「私はここは、これが最善だと思いました。」
こう言える人は随分と立派な気もするのですが、ついでに、
「自分はここでは、これが最善だと思いました。」
こう言えるとより良いように思うんですよ。 ^^
先日の雑感で、清水市代さんのことに多少触れましたが、
「和の将棋」とでもいうべきものもあってもいいように思いますね。
また、こうあるべきだとも思いますね。
相手と一緒になって棋譜を拵える(むすぶ)わけですね。
こう思えるようでしたら、対局者は私ではなく、自分になるはずだと思うのです。
自らの分を尽くして、いわば没我帰一して、よりよい棋譜を対局者二人で拵えようとするわけですね。
真吾オジサンなどは、こういう自分を出し切ることが出来た棋譜というのは、悪くないはずだと思いますよ。
たとえ対局者の技量が劣っていたとしましてもね。
野球でもそうでしょう?
甲子園を目指す高校球児の姿って、美しくもあるでしょう?
プロ野球選手よりは技量は劣ることが大半にもかかわらず、
チームのために自分を出し切ろうとされてますし、
またプロよりも変に擦れていないだけに自分を出し切って、
それで結果的にいい試合になっていることも多いと思いますよ。
選手それぞれが、チームのためだけではなく、
よりよい試合ということのためにも、自分を尽くしたということになっているように思いますね。
熱戦のために、選手それぞれが分を尽くしたとも言えると思いますね。