2012年7月18日(水)
真吾オジサンの雑感
将棋の駒は獨鈷杵の如し。 つづき。
先日の雑感に、将棋の駒の形はどうも獨鈷杵からではないのか?ということを書きましたね。
仮に、こういう視点でものを考えますと、
将棋の駒を創造された人には、結界(けっかい)という気持ちもあったのではないか?
こうも思えるわけですね。
結界って、御存知でしたか?
これ、佛教でいうのです。
修験道でもそうですね。
広辞苑には
【結界】 けっかい
@ 〔仏〕修行や修法のために一定区域を限ること。
また、その区域に仏道修行の障害となるものの入ることを許さないこと。
こう書かれてあります。
ところで、修験道では「六法」ということがあるそうです。
その中に「結界法」というのがあります。
この「結界法」というのは
「これにより修法する道場の地下と四方を金剛杵の力で結界をめぐらし、
修法中のあらゆる障碍(しょうげ)や邪魔を除くために行うものです。」
とものの本には書かれてありました。
獨鈷杵は金剛杵ですよね。
このあたりのことを思いますと、どうも、
獨鈷杵に倣って将棋の駒を創造されたであろう昔の人の思いの中には、
将棋の天地を特別な聖なる空間にしようという思いもあったのではないか?
将棋盤の足は「くちなし」で「口無し」で、「助言を許さない」云々でしたよね。
邪魔を許さないわけですね。 ^^
この邪魔を許さないという考えは、将棋の駒の形にもあるのではないか? ^^
真吾オジサンの出まかせ学説によりますと、そういうことになっております。 ^^