2012年7月26日(木)

 

 

 

真吾オジサンの雑感

 

 

 

芸道思想について。

 

 

 

 

 

「岩波 哲学・思想事典」に「芸道思想」ということが書かれてあります。

 

 

面白いことが書かれてあるように思いましたので、ぜひ、御一読のほど。

 

 

 


 

 

芸道思想

 

 

 

 

「芸道」の語の初出は世阿弥の能芸論書『花鏡(かきょう)』であるが、

 

それ以前に芸道思想が見られないのではない。

 

 

芸道とは、文芸や武芸を<道>として把握する考えを示す語であり、

 

<道>の語は古代律令制の大学寮における明法道(みょうぼうどう)・文章道などの学問領域の名称と同様、

 

特定の知識や技の習得を要する専門分野を意味する。

 

 

ここから道の者(専門家)が考えられ、専門知識や技を継承する家も形成されるに至る。

 

 

学問の家や和歌の家の出現は、道の者の存在とともに芸道確立の重要な契機であった。

 

 

こうした<道>の自覚は、文芸では和歌領域が早い。

 

 

すでに『古今集』真名序(まなじょ)にみえる「斯道」は、

 

和歌詠作が独自の技の錬磨と豊富な知識を要求される専門領域たることを言う語である。

 

 

以後、源俊頼(みなもとのとしより)をはじめ11世紀後半から12世紀初頭の歌人達に多く<道>の語が用いられた。

 

 

中でも藤原俊成(ふじわらのしゅんぜい)は歌のあるべき姿を問い、

 

それが歌に詠む対境の「もとの心」〔古来風躰抄〕が詞(ことば)になることだと考え、

 

対境の実相を観ずべき歌人のあり方を考えるに至る。

 

 

それは歌人に自己の心地(しんじ)の修養を要請することになり、

 

<道>の語は<道>に携わる人をして人たらしめる不断の修行の実践道程を意味するようになる。

 

 

 

 

 

以後、他領域でも、たとえば書が入木道(じゅぼくどう)、音楽が糸竹管弦(しちくかんげん)の道として語られ、

 

技を操る人の心のあり方との関連において説く傾向を示した。

 

 

いわば、技の修行が同時に心地の修養として考えられているのが芸道の特質である。

 

 

その結果、道の者は我意・私欲を去ることが要請されるに至る。

 

 

たとえば世阿弥はその境地を「無心の位」〔花鏡〕と呼ぶ。

 

 

その位に達することが演能において妙花(語り得ぬ深い感動)を成就すると考えるのである。

 

 

<無心>とは、対境の実相を観ずる主体における実相の顕現を言う語である。

 

 

 

 

 

このように芸道では、技とそれを操る人のあるべき姿を同時に規定し、

 

道の者をして人たらしめる不断の実践道程を有する専門領域として、

 

中世から近世にかけ武芸や遊芸をもその語の内に収めてゆくことになった。

 

 

 


 

 

 

将棋愛好家の方は、今回の雑感を、まあ一度と言わず何度も読んでくださいね。

 

 

 

できましたら、ここ最近、この雑感に「和の将棋」とかよく真吾オジサンは書いているのですが、

 

そちらの方も読み直して下さいね。  ^^

 

 

 

 

将棋の技量が高い人でも、こういうことにはてんでダメな人も多いようにも思うのですが、

 

遠慮なしに書きますと、そういう将棋愛好家の方って、本当にみっともないと思いますね。

 

 

プロ棋士・女流棋士の方でも、こういうことは見るからにダメそうな人も多いようにも思いますが、

 

これではダメですね。

 

 

 

ただ将棋が強いだけで、こういう陶冶が全くされていないような人でしたら、

 

遠慮なしに書かせて頂きますと、それはいわば「将棋やくざ」だと思いますね。

 

 

 

こういう将棋やくざは、将棋の腕力がただ強いだけのことで、

 

ものの役には立たない人に過ぎないように思いますね。

 

 

 

 

 

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