2012年7月27日(金)
真吾オジサンの雑感
布施について。
佛教では「布施」を言いますよね。
大体、「お布施」と言いますと、お金のことを思うたりしますよね。
「坊主はぼろ儲けジャン!」
なんてことを思うたりね。 ^^:
こういう人はまあ信心が足らないのですが、それは兎も角としまして、
布施というのは本当は何もお金に限ったことでもないのですよ。
本当はね。
ものの本にこのようなことが書かれてありました。
布施
第一の布施は施しをいいます。
物や財にかかわらず、自らの体や法をすべて生きとし生けるものに施すことをいいます。
布施が六波羅蜜の最初に来るのは、貪りの執着を対治(たいじ)するためなのです。
貪・瞋(怒り)・痴(愚かさ)の根本三毒煩悩は、どれも断つのが難しいものですが、
貪りを対治するという切り口から攻めてゆくことで執着の働きを弱めてゆくのです。
よく「宗教は金儲けだ」などいわれますが、ただそれだけの見方では、布施と貪りの本質を見ることができません。
自称宗教家が貪るのならば、その自称宗教家自体が苦を増大するだけです。
施す者が、浄く執着を減らすため、自ら歓び施しをするところに、
菩薩の修行としての布施があるのです。
電車で席を譲ろうとするとき、心に葛藤が生じます。
これは執着の一つの現れです。
自然に執着なく行われる行為が、本当の布施であります。
布施をした後で、「失敗した」「惜しい」と思ったり、また「自分はいいことをした」、
それを「人にも知ってもらおう」と思うようでしたら、始めから布施をしないほうがいいでしょう。
ですから、執着なく施すという行いにおいては、
人に対する言葉づかい一つでも皆、布施となるのです。
実に分かり易くていいですよね。 ^^
いろいろな場で貪り過ぎのことが多い御時世のようにも思いますね。
この「布施」の気持ちも大切にしたいものですよね。