2012年7月29日(日)
真吾オジサンの雑感
清明心について。
「せいめいしん」と読みます。
この清明心について、「岩波 哲学・思想事典」に書いてあるところがありました。
清明心 せいめいしん
記紀(8世紀初めに成立)、宣命(7世紀後半から8世紀にかけての漢文詔勅文)などで述べられる、よき心のさま。
<清><明>のほか<白><赤><浄>なども見え、「あかき」「きよき」などと読み習わす。
反対の概念として<黒><邪><穢><罪><悪>などがあり、「くらき」「きたなき」「けしき」などと読む。
宣命ではさらに正直・忠・誠なども語る。
『万葉集』にも<清>の概念が見える。
和辻哲郎は、記紀の用例は、律令国家成立以前の古代の祭事的団結のもとでの感情融合的な共同体における、
私心を没して全体に帰依する心構え(およびその反対としての他者から見通されぬ私をもった後ろ暗い心境)をあらわし、
宣命の場合は、そうした古代の伝統を背景に、それがさらに国法の遵守へと関係づけられたものだとした。
この清明心は、さらに中世神道における<正直>、近世儒教における<誠>に思想史的にはつながるものともいわれる。
清明心が祭儀的な場での清浄感を母体にしていることは確かであろうが、
和辻はそれを、無私=全体への帰依の倫理一般へと方向づけすぎているようである。
また清明心は、天武朝ごろからとくに強調された<浄−穢>観念と関連して形成されたものであり、
その背景には中国における佛教・道教混交的な宗教言説・神仙観念における<清明の道><浄><清静>などがあることも指摘されている。
清明心を「古代からの純粋な日本倫理」などとするのは問題がある。
こう書いてありました。
ここに書いてあることに賛否はあることでしょうけれど、
一応は知っておきたいことであり、言葉ですよね。