2012年7月30日(月)
真吾オジサンの雑感
我について。
東京書籍の「佛教語大辞典」にこの「我(が)」のことが書かれてあります。
〔解説〕
インドの一般の諸哲学においては、人間の自我の中に、中心となるものを認め、
これが常住であり、一なるものであり、主宰するものであると考えて、これを「我」とよぶ。
佛教以前のウパニシャッド哲学では、この「我」の意義が力説され、
宇宙我であるブラフマンとの相即が説かれた。
また佛教興起時代の異端の諸哲学においては、我、すなわち霊魂が実体として存在すると想定していた。
ブッダはこれに反対して、「我という実体は認められない」といって、
これについては、ありともなしとも断定をひかえるという無我の立場を強調し、
存在は、縁起によって起こるものであると説いた。
こう書いてありました。
この辞典には「我愛」「我見」「我慢」ということも出ております。
これも引用しておきましょうね。
【我愛】があい
自我に関する愛執。自己に対する愛着。自ら自己を深く愛着する心。
護法の唯識説によると、第七識は常に第八識の見分に向ってこの煩悩を起こす。
四根本煩悩の一つ。
【我見】がけん
@ 自我という見解。自我についての見解。自我ありとの考え。
人間には永遠に変わらない主体があるという誤った考え。
常・一・主・宰の自我があるとして、それに執着する見解・思想の意。
永遠の主体に対する執着。
このわれわれの肉体・精神が諸条件の集まりにすぎないことを知らず、
実体的な我の存在を認める見解。
実体的自我があると解する見方。
【我慢】がまん
@ 自己の中心に我があると考え、その我をよりどころとして心が憍慢であること。
おのれをたのんで心のおごる煩悩。自らをたのむ慢心。
七慢の一つ。四根本煩悩(貪・瞋・癡・慢)の一つ。
こんなことが書かれてありました。
知っておいてもいいことのように思いますね。