2012年8月15日(水)
真吾オジサンの雑感
将棋の空間は清浄の空間。
日本人って清浄な空間を尊びますよね。
これは間違いなく神道の禊の影響だと真吾オジサンは思いますね。
学研の「神道の本」という本の中にいいことが書かれてあります。
神道の5つのキーワード
禊祓い
● 「穢れ」に対する極度の敏感さ
神道5つのキーワードの最後は「禊祓い(みそぎはらい)」だ。
よく知られているように、神話における禊祓いの起源は、黄泉国(よみのくに)から帰ったイザナギが
「筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あわぎはら)」
で黄泉国の穢れを祓ったことに由来するとされている。
日本では、この穢れを非常に忌み嫌った。
血の穢れ、死の穢れなど、穢れには多くの種類があったが、
とにかくこの穢れがあると、その人の魂に穢れが付着するというのが、古代日本人の考え方であった。
しかも、自分が直接、穢れに触れなくても、だれか穢れに触れた人と接すると、
それだけで穢れがうつるという考えがあった。
これを「触穢(そくえ)」という。
そこで古代人は、穢れを生活圏からいかに隔離するかに頭を悩ませ、
水で祓ったり、紙などの人形に撫でつけて祓うなど、穢れを清める方法をさまざまに考案し、厳重にそれを守らせようとした。
(略)
古代人がなぜそれほどまで神経質に穢れを嫌ったかといえば、
人間は本来、神のワケミタマであって、その本質は
“アカキ、キヨキ、ナオキ、タダシキ”ものだとする考えが、彼らの人間観の根底にあったからにほかならない。
(略)
● 類をみない清浄な宗教
禊祓いは、あらゆるケースで行われた。
神社に入る際に手を洗い、口を漱ぐのも禊であり、占いや神憑り、祭りなどの前に精進潔斎(しょうじんけっさい)するのも、
雛祭の際、体についた穢れを雛になすって川などに流すのも、すべて禊祓いであった。
さらに、言葉にはそれ自身に霊力が備わっているとする「言霊(ことだま)」の思想から、
穢れた言葉は魂を汚すという考えが生み出され、
死を「ナオル」、血を「アセ」、病気を「ヤスミ」、墓を「ツチクレ(壌)」、泣くことを「シホタル」
などと言い換える類の多くの忌み言葉がつくられたが、これも広義の祓いであった。
こうして祓われ、清浄になった魂は、再生した魂、本来の
“アカキ、キヨキ、ナオキ、タダシキ”心を取り戻した魂と観念されたのである。
このような伝統の中から、日本には、世界に類を見ない神道という清浄な宗教が生み出された。
その社殿を見ればわかるように、神社建築には、他の宗教建築に見られるような、
けばけばしい装飾、怪奇な魔物の像や、神々の偶像、どぎつい色彩、きらびやかな調度(ちょうど)、
こけおどしの荘厳(しょうごん)などの類はいっさい存在しない。
垣に囲まれ、玉砂利が敷きつめられた清浄そのものの境内と、紙と木で造られた素朴な社殿は、日本人が信仰してきた
“アカキ、キヨキ、ナオキ、タダシキ”心の具象化そのものであった。
(略)
まあこのように書かれてあります。
将棋の世界でもこんな感じですよね。
将棋盤・駒台・将棋の駒、どれもけばけばしさやどぎつさなんて皆無ですよね。
これね、対局者でもそういう方がいらっしゃると思うんですよ。
御本人は多分、無意識にうちにそうされているとは思うのですが、
それは、矢内理絵子さんなのです。
これをご覧くださいね。
「将棋を指すときはマニキュアなどは一切しません。盤とか駒とか自然の木を使っているところに、
人工的な色が入るのはふさわしくない気がして。」
こう書いてありましたね。
将棋愛好家の方は現状ではオジサンが多いので、折角なので真吾オジサンが解説をしてあげましょうね。 ^^
女性にとってマニキュアって、こういう面があると思いますよ。
矢内理絵子さんも、こういうお気持ちなのかどうかは知りませんが、
兎も角、女性にとってこう言う面もあるもんなのだと思うんですよ。
「こういう気持ちで、私は将棋とは向き合いません! こういう気持ちを私は将棋の世界には持ち込みません!」
という強い意志を真吾オジサンなどは感じるのです。 ^^
“アカキ、キヨキ、ナオキ、タダシキ”心のように真吾オジサンなどには見えますけれどね。
まあ、別に矢内理絵子さんは神道を信仰されているというわけでもないかもしれませんけれどね。 ^^:
ついでに書いておきますと、矢内理絵子さんって、服装でも髪型でもけばけばしさとは、およそ無縁ですよね。
ということで、将棋の空間は本当は清浄な空間なのだと思いますね。
以前に獨鈷杵のことを書いて、そこで結界のことも書きましたよね。
将棋の空間って、そういう空間であるべきだと真吾オジサンなどは思いますね。