2013111日(金)

 

 

 

真吾オジサンの雑感

 

 

 

過ぎたるは猶及ばざるが如し

 

 

 

 

勿論ご存じですよね。

 

論語のことばです。

 

先進第十一に出ております。

 

 


 

 

子貢問、師與商也孰賢。

 

子曰、師也過、商也不及。

 

曰、然則師愈與。

 

子曰、過猶不及。

 

 

 

 

子貢(しこう)問ふ、

 

「師(し)と商(しょう)とは孰(いず)れか賢(まさ)れる。」

 

子曰く、「師は過ぎたり。商は及ばず。」

 

曰く、「然らば則ち師愈(まさ)るか。」

 

子曰く、「過ぎたるは猶及ばざるが如し。」

 

 

 

 

[通釈]

 

子貢が「師(子張・しちょう)と商(子夏・しか)とは道を修める上においてはどちらがまさっておりますか」と問う。

 

孔子、「師は過ぎている。商は及ばない。」

 

子貢は過ぎたのは及ばないのより勝っていると思ったから、

 

「そうしますと師の方がまさっておりますか。」と問う。

 

孔子「過ぎたのは及ばないようなものだ。」

 

 

 

 

 

[解説]

 

この章は道の中庸を得べきものであることを述べたのでる。

 

 

道は過ぎもせず及ばぬこともなく中庸を得るのを最も善いとするのである。

 

賢者の過ぎたのは愚者の及ばないのに比べれば勝ってるようであるけれども、

 

ともに中庸を失っていることは同じである。

 

 


 

 

 

真吾オジサンの持っている論語にはこのように書かれてありました。

 

 

でも、この過ぎたるは猶及ばざるが如しという気持ちになるのは、何も儒教の道に限ったことでもないですよね。

 

 

 

この平成濁世には実に様々な「過ぎたる」ことに溢れているように真吾オジサンには見えますね。

 

 

男性社会に過ぎる社会もあれば、

 

逆に女性社会になりすぎているところだって多いですよね。

 

 

 

男性社会ですと、兎角、女性を性のはけ口の対象とばかりに見なしたがるような面もあったり、

 

女性をペットか、モノか、道具か、コンパニオンの如くに扱うようなことも、

 

本当のところ多いですからね。 ^^;

 

これらが複雑にブレンドされていたりとかね。 ^^;

 

 

 

女性社会が過ぎたるところでは、真吾オジサンなどは

 

「あれはジュラシックパークならぬ、ジェラシックパークだ」

 

と言うているくらいで、まあ呆れるほどに嫉妬渦巻く世界で

 

足の引っ張り合い・陰口の多い世界になっていることが多いでしょう? ^^;

 

 

 

 

真吾オジサンに言わせますと、この平成濁世は

 

消費者に寄りすぎている社会にもなっているようにも思いますね。

 

で、お金を支払う立場になれば、

 

「もう王様か姫様扱いにしないと許さんぞ!!」

 

くらいの思うているぼんくらが多すぎだと思いますね。

 

また法律上も消費者保護ばかりを言うので、こんなことにもなっているのでしょうけれどね。 ^^;

 

 

 

 

消費者はいつも社会的弱者であるという構図なんて、嘘ですからね。

 

 

 

バスの添乗員さんなんかは、真夜中にしょうもないことでお客さんに起こされることも多いそうで、

 

その上宴会ともなれば、コンパニオンにもならないと、承知しないお客さんも多いそうです。

 

 

それでもまだ待遇面で悪くないのならまだしも、これがそうでもないらしいですからね。

 

 

 

 

女性の看護師さんなんかは、高齢者に点滴をするべく、ベットに仰向けになっているじいさんに近づくわけですが、

 

そのときに胸を触られたり、お尻を触られたりもするのです。

 

 

そんなことをされても、

 

「も〜、…さんダメでしょう」

 

と笑顔を絶やさないようにされている看護師さんも多いですからね。

 

 

 

「これが、社会的弱者?」

 

という気にもなるわけですね。 ^^;

 

 

 

真吾オジサンなどは、点滴用の注射針をそのじいさんの尻に突き立てることくらいは

 

許されてもいいように思うんですけれどね。 ^^;

 

 

 

悪質クレーマー・それ風のぼんくらが矢鱈めたらに多いのも、

 

真吾オジサンに言わせれば、消費者はいつも社会的弱者であるということにしているから

 

そうなっている面も否めないと思っております。

 

 

 

 

真吾オジサンの目には、そんな風に見えておりますこの平成濁世なのですが、

 

業者さんにしろ、消費者さんにしろ、男性にしろ、女性にしろ、

 

「むすび」ということにもっと思いをいたすべきですよね。

 

相手の側の立場や、幸せとかにもそれなりの配慮をすべきですよね。

 

 

 

業者か消費者か、男性か女性か、というのではなくね。

 

 

 

去年亡くなられました三宅久之さんが、

 

「戦後の日本人が無くしたものは、惻隠の情である」

 

といった趣旨のことをどこかでいっておられたように記憶するのですが、

 

真吾オジサンもきっとそうだろうと思いますね。

 

 

 

お互いに「惻隠の情」あれば、それなりの「むすび」にはなるはずだと思いますね。

 

 

「むすび」の関係の方が、男性か女性か、ABかの構図よりも

 

全体としてみれば、実りが大きいことになりそうにも思うんですけれどね。

 

 

ABかで相克関係になり続けているよりも、

 

お互いに相手の幸せに配慮した「惻隠の情」のある「むすび」の関係の方が

 

本当は望ましいことを承知しているような関係がいいように真吾オジサンなどは思いますね。

 

 

 

 

 

 

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