2013年2月24日(日)
真吾オジサンの雑感
木の芽してあはれ此世にかへる木よ 村上鬼城
先日の雑感にも書きました村上鬼城の句です。
「きのめ」と読まないで「このめ」と読みましょうね。 ^^
歳時記に「木の芽」はこう書かれてあります。
【解説】
春の木の芽の総称で、木によって遅速がある。
楓の芽、桑の芽、蔦の芽など、一括して名木(なのき)の芽と言う。
きのめともいうが、山椒の芽をとくに「きのめ」と言うこともある。
木の芽立の美しさは古くから認められ、
ことに柳の芽立の美しさに讚嘆の声を惜しまず、
桜あるいは梅と並んで、柳は春の象徴として、並称された。
だがそれぞれの木が、春の芽立の浅緑や紅の美しさを持っていて、
今日ではそれぞれの芽立が歌や句に詠まれることが多い。
美しいばかりでなく、生まれる生命の力を感じさせる。
木の芽がふくらんでくることを「木の芽張る」と言ったから、
古くは「春」にかけることが多く、
「木の芽春雨」「木の芽春風」などと詠んだ。
「帰るかり雲路にまどふ声すなり霞ふきとけ木の芽春風」読人知らず(『後撰集』巻二、春歌中、六〇)、
「堀河院の御時百首の歌奉りける時春雨の心をよめる、
よも山に木のめ春雨降りぬればかそいろはとや花の頼まむ」藤原基俊(『千載集』巻一、春歌上、三一)
こう書かれてあります。
この木の芽が膨らんできたときには
「ああ〜、本当に春だなぁ〜」
くらいには季節の推移に余程鈍感な人でも思われることだろうとは思います。
なんとなく、楽しい気分になれますよね。 ^^
でも、こういうものでも、村上鬼城の手にかかりますと、
「あはれ此世にかへる木」とされてしまうのです。 ^^;
いまだ輪廻しておる木と鬼城に見られているのでしょうね。 ^^;
東京書籍の「佛教語大辞典」に「草木國土悉皆成佛」と「草木成佛」ということが書かれてあります。
これもついでに引用させて頂きましょう。
【草木國土悉皆成佛】 そうもくこくどしっかいじょうぶつ
草木や国土のように心を有しないものさえも、
仏性をもっているので、ことごとくみな、仏になる、という意。
『涅槃経』の思想に由来し、『大乗玄論』『探玄記』などに説く。
自己も環境も一体不二であり、万有が平等の真理のあらわれであり、
仏のすがたであるという思想にもとづいている。
天台宗で強調し、また真言宗でも説く。
【草木成佛】 そうもくじょうぶつ
草木も成仏できるということ。
『法華経』薬草喩品に、仏法を雨にたとえて衆生の成仏しうることを説く。
こんなことが書かれてありました。
木の芽してあはれ此世にかへる木よ 村上鬼城
やっぱり、鬼城の句って、ブルーな気分になりますよね。
どこか息苦しいような気分にもなりますよね。 ^^;