2013年3月17日
真吾オジサンの雑感
毎年よ彼岸の入に寒いのは 正岡子規
歳時記に「彼岸」はこう書かれてあります。
彼岸 ひがん
【解説】
春分と秋分とを中日として、その前後三日ずつ七日間を言う。
梵語(ぼんご)の波羅(はら)の訳語。
波羅とは、到彼岸の略で、生死流転に迷う此岸(しがん)に対して、
煩悩の流れを超えた悟りの境地を彼岸という。
日本ではこの頃は、もともと農事始の神祭をする時期で、仏教に縁のない固有信仰にもとづく行事も多い。
この日、北秋田地方では、万燈日(まんどうび)と言って、子供らが村中から藁をもらい集め、
丘の高みで火をたき野火とも言っている。
彼岸会(ひがんえ)、また彼岸参(ひがんまいり)と言って、寺や墓に参り、仏事を行う。
彼岸の入りの日を彼岸太郎・入り彼岸・さき彼岸・初手(そて)彼岸などと言い、
終りの日を終(しま)い彼岸・彼岸ばらいなどと言う。
「彼岸太郎、八専二郎、土用三郎、寒四郎」と言って、
彼岸(とくに春の彼岸)第一日、八専(壬子(みずのえね)の日から癸亥(みずのとい)までの十二日間)第二日、
土用(四季に土用はあるが、とくに夏の土用)第三日、寒第四日が晴天であると、
その年は豊年であるといった。
[暑さ寒さも彼岸まで]と言われる好適の季節で、山登り・野遊びを行なう地方も多い。
宗教的意味より遊楽的意味が強い。
彼岸団子や牡丹餅(ぼたもち)を作って近隣へくばる。
[山本健吉]
こう書かれてありました。
毎年よ彼岸の入に寒いのは 正岡子規
この歳時記にはこの句についても書かれてあります。
【鑑賞】
「母の詞自ら句となりて」という前書がある。
明治二十六年三月の作である。
その当時の子規はまだ病気になる前であって精力的に活躍していた。
彼岸の入にたまたま冷え込む日があったのだろう。
「暑さ寒さも彼岸まで」というが、その彼岸の入に寒い日があるのはいつものことである。
「もうお彼岸だというのに寒いね」というと、
母堂が「毎年よ、彼岸の入に寒いのは」と答えた。
子規は母のその言葉がそのまま俳句になっていることに気付いて、それを俳句とした。
●明治のこの年代で口語調の俳句は珍しく、しかも、平明のうちに彼岸の入らしい季節感が出ている。
[草間時彦]
こう書かれてありました。
正岡子規の俳句といえば、
柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺 子規
をまあ誰でも思い出されることでしょうけれど、
こういう面白い句も多いんですよ。
ところで、この句を解説されておられます草間時彦さんという方は有名な俳人の方なのです。
この草間時彦さんは今はどうなのかよく知らないのですが、以前は、
角川書店の月刊誌で「俳句」という俳句の総合雑誌で選者をされておられました。
そこで、実は昔真吾ニイサンが投句した句を秀逸だったか何だったか忘れましたが、
採って頂き批評して頂いたことがあります。
朝寒や缶コーヒーを頬に当て 真吾ニイサン
こういう句でした。
嬉しく懐かしい思い出です。 ^^
俳句をされておられない方はこういうのは分かりにくいかもしれませんが、
有名な選者にいいところで自分の句を採って頂いて、その句を批評して頂けることって、
それは本当に嬉しいものなんですよ。
「ああ〜、私は俳句を続けていて良かったなぁ〜」
まあ、このくらいの気持ちにはなるものですね。 ^^