2013年3月28日
真吾オジサンの雑感
敵に塩を送ることについて。
コンピュータ将棋・習甦の開発者の竹内章さんは、第2回将棋電王戦にご登場されたのですが、
本番の対局の日の随分前に、そのソフトを対局相手の阿部光瑠四段に貸与されました。
ここしばらく関心もなかったので、2ちゃんねるはもう半月くらいは見ることもなかったのですが、
‐この雑感は2013年3月27日に書いたものです‐
久しぶりに、今日は時間であったのでコンピュータ将棋関連の2ちゃんねるを見てみたのです。
やはり、このソフトの貸与のことについてあれこれと書き込みがされてありましたね。
敵さんに事前に何らかの情報を持たれていることは、まあ得になることはないですよね。
大東亜戦争の「ミッドウェー海戦」ではアメリカ側は日本側がどう動いてくるかを知っていたのです。
日本側が概ねどう動いてくるかがほぼ分かりさえすれば、そこに戦力を集めることだって容易にはなりますよね。
そして対策が立てやすくなることも自明の理ということになりますよね。
こういうことになりますよね。
誰が思うてもそういうことになると思いますね。
なので、敵さんにわざわざ情報を与えるようなことは
「それは利敵行為だろう」
「本気で勝ちたいと思っているのか」
とか何とかかんとか他人から言われることにもなるだろうと思うのです。
こういう風になりかねないことを、竹内章さんは分からなかったのか?
そんなことはないだろうと思いますね、真吾オジサンはね。
こうなることが十分に分かっておられた上で、
そうされたように真吾オジサンの目には見えますね。
竹内章さんは、野心家ではないように思いますね。
習甦というネーミングは「羽生さんから白星を重ねたい」云々ということでそうされたそうなのですが、
「羽生善治さんにいつの日にか勝って、名声もお金もゲット!!!」
竹内章さんはこういう感じのように、どうも真吾オジサンの目には見えないのです。
純粋に、「高い山だからこそ登り甲斐もあるというものなのだ」
どうもこんな風に見えるのです。
習甦という名前の由来のことを知りますと、
人によってはこのネーミングは不遜なネーミングのように思われることもあるかもしれませんが、
真吾オジサンはそうではないように思いますね。
以前、何かの画像で、若い頃の羽生善治さんと渡辺明少年が、どこかの将棋まつりか何かだろうと思うのですが、
将棋盤を挟んで握手している画像を見たことがあります。
あのころの渡辺明少年は、
「羽生善治さんは将棋の神様のような人。
俺だってどうせ将棋をしているのなら、いつの日にかは羽生善治さんに勝てるようになりたいジャン!!」
こうではなかったか?
竹内章さんは、習甦をこういう気持ちでそういうネーミングにされたのではないのか?と思うのです。
羽生善治さんに対する深い尊敬がその背景にあるネーミングのように真吾オジサンにはどうも見えるのです。
不遜なとか、尊大なネーミングではないと思いますね。
対局前の記者発表会の場で、竹内章さんが、将棋の芸術性について言及されましたが、
竹内章さんは芸術家肌ではないのでしょうか?
こういう風に理解しますと、ソフトの事前貸与を何故されたのかも見えてくるように思うたりもするのです。
当面の勝利者となる名声はそれほどには欲しがられなかったのではないかな…?
「まあ、どうせなら勝てたほうがいいには決まってはいるが…」
このくらいのことだったのではないかな?
そういうことよりも棋譜の完成度の高さとかのほうに
この対局では重きを置かれたのではないでしょうか?
「敵に塩を送る」
ご存知の方も多いことでしょうけれど、これは上杉謙信の故事がその由来なのです。
武田の領地に塩を送ったわけです、上杉がね。
武田の領地はどこも海に接していなかったのです。
なので、塩が確保出来なかったのです。
塩がないことには、人間は生命活動が出来なくなることは明らかなわけです。
戦国時代のことですから、大きくなりすぎた武田氏を恐れた北条氏は「塩止め」政策をとったのです。
どこもまずは我が身可愛さのほうを優先するに決まっておりますからね。
「どうだ、これなら武田氏といえども流石に悲鳴を上げるに違いない…」
こんなことだったのでしょうね。
これには武田氏も困ったことでしょうね。
こういうことになったので、上杉謙信もこれにならって塩止めをすれば、
まさに戦わずして勝つようにも出来たかもしれないのです。
武田氏とはもう何度も戦っていたので、その力を上杉氏は十分すぎるほどに知っていたはずなのです。
武田氏が上杉氏・越後の脅威であることは誰の目にも明らかだったわけです。
なので、ここは是非もなくそうするべきですと、家臣が上杉謙信に申し上げることもあったようなのです。
しかし、どういうわけか上杉謙信はその塩止め政策に対して首を縦にふらないのです。
「そうすれば武田の領民が困ることになる」
どうもこういうことで、塩止め政策をしなかったようなのです。
面白い殿様ですよね。 ^^
上杉謙信は仏教に深く帰依していて、若い頃は出家しようとされたときもあったそうなのです。
このあたりの上杉謙信の性格の問題もあってそういうことになったのかもしれませんね。
「義」の殿様だったのでしょうね。
ある意味芸術家肌の殿様だったのかもしれませんね。
「そんな卑怯なことをしてまで勝ちたくない」
でね。
この上杉謙信に対して、武田信玄は野心家でもあったのです。
なんとしても上洛をしてそこに武田の旗を立てたがるところがあったようなのです。
そのためには、北条氏と手を結んだり、今川氏を蹴散らしたり、徳川氏も蹴散らしたりもしたのです。
上杉氏も蹴散らそうとしたのですが、
ただ毘沙門天の転生と自負していたくらいの上杉謙信はこれがどうにもならないくらいに強かったのです。
しかし、武田信玄としましては、この上杉謙信を強く叩いておかないことには、
どうにも物騒なので、もうそれは上洛どころでもなかったわけですね。
上洛にうつつを抜かしているうちに、上杉謙信が信濃・甲斐に攻め込んで来られるのが恐ろしかった…
「こうなっては元も子もないジャン!!」
だったのでしょうね。
それで川中島の合戦になったという面があったようなのです。
川中島の合戦と言いますと、あの一騎打ちのときの川中島の合戦のことを思われる方が多いだろうなと思いますが、
実は何度もあそこで武田氏と上杉氏は争っていたのです。
お互いにとって要所だったのでしょうね。
まあ、兎も角、その川中島の合戦である程度は上杉氏を叩けた武田氏は、
さあ今度は上洛だ!となれたわけです。
こういう武田信玄だったのですが、後々になって
上杉謙信と争うたのは、阿呆なことであった、手を組むべきだった、と思うたそうですよ。
死の間際になって、息子の勝頼に、
「上杉謙信を頼むべし。 謙信は頼めば嫌とは言わぬ」
といった趣旨のことを言うたそうです。
この上杉謙信は、領土に対する野心はほとんどなかったのでないかと思います。
兎も角、大義名分にこだわったり、義に従って、天誅を加えたがるようなところがあった。
こういうところが、上杉謙信の魅力になっていると思いますね。
武田信玄と上杉謙信、どちらも魅力的な武将ですよね。
どちらが正しい生き方であるとは一概には言えないように真吾オジサンなどは思いますね。
「敵に塩を送る」について書きました。
折角なので、この動画をご覧下さいね。
こういうことも利敵行為といえばそうとも言えることだと思います。
しかし、阿修羅な人・阿修羅なご時世でもなければ、
こういう話は普通は美談として受け止められるのではないかな?と思いますね。
こういう「敵に塩を送る」ことができるのは、
義のことを強く思っているとか、なんとかかんとかがあるからだと思いますね。
「なんでもいいから、兎も角目の前の戦いに勝ちたいぞ!!」
と名利しかほとんど頭の中にないようでしたら、こうはできないことでしょうね。
「敵に塩を送」れる人は、
大きく、高い志なり、視点なりを持てていて、
そのいう視点から目の前の争いを俯瞰しているようにも思いますね。
「目の前の争いのことでもう頭の中がいっぱい!」
という小さいといえば小さい視点しかないようでは
こうはできないことでしょうね。
敵に塩を送れる人は、超然的なところはあるように思いますね。