2013年4月29日
真吾オジサンの雑感
去来抄について。
「去来抄(きょらいしょう)」は聞いたことのある方も多いだろうと思います。
多分、中学か高校のときの国語で教えて頂いたはずだろうと思います。
広辞苑には
【去来抄】 きょらいしょう
向井去来の俳論書。「先師評」「同門評」「故実」「修行」の4部より成る。
去来の芭蕉随聞記的資料で、「さび」「しおり」「不易流行」などの俳論が重要。
1702〜04年(元禄15〜17)成る。75年(安永4)刊。
こう書かれてあります。
「修行」に書かれてあるものを引用しましょう、今回の雑感はね。
去来曰く「はいかいの修行は、おのが数寄(すき)たる風の先達(せんだつ)の句を
一筋に尊み学びて、一句一句に不審をおこし難を構ふべからず。
若(もし)、解きがたき句あらば、いかさま故あるらんと工夫して、或は巧者に尋ぬべし。
我がはいかいの上達するにしたがひて、人の句も聞ゆる物也。
始めより一句一句を咎めがち成る作者は、吟味のうちに日月かさなりて、終に巧の成りたるを見ず。」
こう書かれてあるところがありました。
駄目だしをすることに生き甲斐を見出している人は、
これを一度と言わず何度も読んで、
この全文を記憶されるのがいいように思いますね。
これは俳句の世界に限らずね。
確かに、去来の言うとおりで、浅はかなところで何時までたっても駄目だしをしていて、
それである種の無謬性を保とうとしている人も多いのですが、
こういう人って、数年後に何かのことで会う機会があってもそのままの人が多いですよね。
まあ、これも考えものですよね。
自戒を込めてなのですが。