201353

 

 

 

真吾オジサンの雑感

 

 

 

天命の性について。

 

 

 

 

あいも変わらず「朱子語類」抄に目を通しております。

 

今回の雑感は「天命の性」について書きます。

 

「朱子語類」抄にこう書かれてあるところがあります。

 

 

 

 

天命之性は、典拠としては『中庸』第一章、

「天の命ずる、之れを性と謂う」にもとづく。

まだ気と結合しない、理念としてのみ存在する絶対純粋の善性。

これが気に堕ちると、「気質の性」と呼ばれる。

偏は気の属性を表わす概念、気の化合のバランスが崩れているさま。

その対語が全であることはいうまでもない。

 

 

 

これをまずは頭の中に入れておかれて以下のことを御覧下さいね。

 

 

 

 

質問「気質に昏濁の違いがあるならば、

“天命の性”に“偏”や“全”があることになりますね」。

 

先生「“偏”や“全”があるわけではない。

たとえば、日や月の光は蔽(おお)いのない場所に居れば全部見えるが、

日除けのある部屋にいると蔽い塞がれて、見える部分と見えない部分が生まれる。

昏濁というのは気が昏濁しているのだ。

だから日除けのある部屋にいるときのように蔽い塞がれる。

しかし、人の場合には、蔽い塞がれてもそれを通じさせうる道理があるが、

鳥や獣になると、やはりこの性はあるのだが、ただ身体に拘束されて、

生まれつき蔽い隔てられることがひどく、通じさせようがない。

虎や狼の仁、山犬や川獺の祭り、蜂や蟻の義といっても、

ただ隙間から洩れる光のように、わずかな部分しか通じないのだ。

猿となると、身体つきが人に似ているから、

ほかの動物よりも際立って聡く、ただ言葉が喋れないだけだ。

異民族になると、これは人と獣との中間の存在だ。

だからどうしても矯正しにくい」。

 

 

 

こう書かれてあります。

 

 

 

 

「天命の性」とはこのようなもんだそうです。

 

 

 

それとこの文で見逃せないのは最後のところで、

 

宋学では、夷狄をこのように見ていたのでしょうね。

 

 

 

異民族のことを、‐表現は適切ではないかもしれませんが‐

 

類人猿の如くに思うていた…

 

 

 

ちょうど、西洋列強が近代に世界の覇権を争っているときに、

 

アフリカ人やアジア人のことを猿のごとくに思うていたようなものでしょうね。

 

 

 

 

まあ、今回引用しましたことも、現代人の目には荒唐無稽以外の何ものでもないのですが、

 

まあ、知っておきましょうね。

 

 

 

 

 

 

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