201357

 

 

 

真吾オジサンの雑感

 

 

 

朱子学の気稟について。

 

 

 

 

今回の雑感でも、朱子学のことについて書きます。

 

今回は「気稟(きひん)」について書きます。

 

 

 

広辞苑には、

 

【気稟】 きひん

生まれつきもっている気質。天稟の気質。

 

 

 

ちなみに、

 

【気品】きひん

どことなく感じられる上品さ。けだかい品位。

 

 

 

と気品のことも広辞苑には書かれてあるのですが、

 

この気品と気稟とを同一視したりして誤解しないようにしましょうね。

 

 

 

 

今回の雑感に書きますのは「気稟」のほうです。

 

 

 

朱子学の本の中でこのように書かれてあるところがありました。

 

 

 

天が人に命じたものは、理であるから、もともと善であって悪はないのである。

だから人が天から受け取って性としているものも、もともとは善であって悪はないのである。

孟子が「性ハ善ナリ」といったのは、もっぱら根源のところについて説いたのであり、

説き方がきわめて適切であったが、気稟の方面を明らかにしなかったために、後世、雑多な議論を巻き起こした。

思うに人に様々な不揃いがあるのは、ただ気稟が同じでないからである。

気は、陰陽五行の気であり、陽の性は剛、陰の性は柔、

火の性は燥、水の性は潤、金の性は寒、木の性は温、土の性は重厚である。

この七つのものが入り雑じると、様々な不揃いが生じる。

それでめぐり合ったものに随って、人の品性にも様々な種類が生じるのである。

しかしこの気がめぐりめぐって行くうちに、おのずからにして真元の会が生じる。

たとえば暦法で計算して、本数が集まるところまで行くと、『漢書』にいわゆる

「日月璧ヲ合スルガ如ク、五星珠ヲ連ヌルガ如キ」状態になるのと同じことである。

聖人は、つまりこの真元の会を受け取っているのである。

しかし天地のなかには不揃いの時の方が多く、真元会合の時の方が少ない。

たとえば一年の中で、極寒・酷暑・曇天の時の方が多くて、

寒くもなく暑くもなく、うららかな風がそよぎ、晴れわたった月が照り輝いている時は極めて少なく、

ちょうど程よい気候はなかなか得られないようなものである。

人が生まれると、多くの場合、この不揃いの気に出会う。

この世のなかには、ひじょうに気性の烈しい人がいる。

これは陽の気に多く出会っているからだ。

ひじょうに軟弱な人がいる。

これは陰の気に多く出会っているからだ。

短期・粗暴ですぐ腹を立てる人がいる。

これは陽の気の悪いものに出会っているからだ。

狡猾で陰険な人がいる。

これは陰の気の悪いものに出会っているからだ。

生まれつきひじょうに融通性に富んだ人がいる。

ちょっと刺激すると、すぐ反応する。

またきわめて愚かでひねくれたものがいる。

一句の善言も聞き入れず、禽獣となんら異なるところがない。

これらはいずれも気稟のせいなのである。

陽の気のなかにも善と悪があり、陰の気のなかにも善と悪がある。

たとえば『通書』に「剛善・剛悪・柔善・柔悪」とあるのがそれである。

陰陽の気がもともと悪いのではなく、分合変化していって、揃ったり揃わなかったりしていくうちに、

自然に純と不純、善と悪の違いが生じるだけなのである。

気に純と不純の違いがあるので、人に賢と愚の差別が生じる。

気は不揃いであっても、根本は同じだから、下愚の人でも、生まれ変わって善をなすことができるようになる。

しかしその工夫はとりわけ難しい。

百倍の努力をするのでなければ、不可能である。

(略)

 

 

 

 

こうのように書かれてありました。

 

 

 

朱子学ではこのように考えているようですね。

 

 

 

どうぞご参考のほど。

 

 

 

 

 

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