2013年5月8日
真吾オジサンの雑感
朱子学の義利について。
今回の雑感も、朱子学のことについて書きます。
今回は「義利」について書きます。
今回も朱子学のことが書かれてあります本から引用しましょうね。
義利
義と利は対になっているが、実は相反しており、義から離れると、すぐに利に入ってしまう。
義と利の違いは極めて微妙であるから、学ぶ者は、その両者の違いを精察しなければいけない。
文字の意味からいえば、義は天理の宜しきを得たものであるり、利は人情の欲するものである。
欲は、自分のものにしようと欲することである。
このことをさらに押し広めていうと、天理の宜しきを得たものは、人情の欲するものではなく、
人情の欲するものは、天理の宜しきを得たものと合致しない。
天理の宜しきを得たものは、当然そうあるべくしてそうであり、為にすることがなくて、そうするのである。
人情の欲するものは、そうあってはならないのにそうあり、為にすることがあってそうするのである。
天理の宜しきを得たものは公であり、人情の欲するものは私である。
たとえば貨財や名位や爵禄などは、利のなかの粗いものに過ぎない。
その外、たとえば強弱や多寡を計り比べるのは利であり、自分に都合がいいように取り計らうのも利であり、
名声を求めたり、効果を待ち望んだり、自分の利益を計ったり、
自分勝手な行いをしたり、外のものを慕ったりするのも、みな利である。
しかし貨財や名位や爵禄なども、それをただちに利とするのは間違いであって、
やはり一つの事柄として見ていかなければいけない。
ただここから利に陥りやすいだけだ。
別のところにはこう書かれてあります。
学ぶ者の立場から論じると、たとえば財貨も、人が生きて行くための生活手段として、不可欠のように思われる。
ただし金儲けをしてもよい場合に、金儲けをし、利益を手に入れてもよい場合に、手に入れるならば、これは義である。
もし人を騙すような不正な手段を用いて、金儲けをしてはいけないのに、金儲けをし、
利益を手に入れてはいけないのに、手に入れるならば、これは利である。
すでに用が足りているのに、さらにあくせくと利殖を計るような人がいるとしたら、もちろんこれは利である。
また金持ちの家に生まれて、金儲けをする必要のない人がいる。
利益を追求しないように見えても、物惜しみの心が強く、計算高くて、お金を出さなければならない時に、
びた一文出さないならば、これはとりわけ利の甚だしいものである。
たとえば名声・地位・爵位・俸禄は、正しい方法で手に入れて、私意や打算から出たものでないならば、
これは当然得るべくして得たのであるから、これは義である。
(略)
このように書かれてありました。
今回の雑感に書きましたことも、昔の人が思うたまでのことよ、と言えばそうに違いはないのですが、
でも知っておかれましてもいいことのようにも思いますね。
説明の必要もないことかもしれませんが、儒教では「五常」ということをいうのです。
「仁・義・礼・智・信」の五つを「五常」というのです。
その中の「義」の「義利」のことを書きました。
ところで、真吾オジサンは勝負事のことがあまり好きではない云々ということを
この雑感でも何度も書いてきたように思うのですが、段々とその理由は分かって頂けましたでしょうか?
今回は朱子学の義利のことを書きましたし、
仏教の修羅のこととかも以前に書きましたよね。
勝負事を徒なまでに好む方は、せめて何のために戦うのか、勝つのかくらいのことは思うようにしましょうね。
こういうことを一向に思うこともなく、ただその時々の勝負事の結果なりに対して
何時までたってもそれに一喜一憂し続けてばかりいるのも、
これもどうかなぁ〜?とは思いますからね。
お尻の青いうちはこういう風でもいいかな?と思わないでもないのですが、
いつまで経ってもこのままというのもねぇ…
話を極端にして譬えますが、高齢者同士がゲートボール場で顔を真っ赤にして罵り合っているらしい
という話を他人から聞かれたことはある人も多いでしょう?
真吾オジサンに言わせれば、なんのために戦うのかとかほとんど思うことのない人って、
多分、こういうどうしようもない高齢者になる可能性が高いと思いますね。
他人に勝って、恍惚感・優越感に浸りたいとか、戦利品を得たいとかしか
何時までたってもほとんど思わないような人でしたら、
人間って、年をとりますと、段々とその性格が先鋭化するそうなので、
多分、こういうぼんくら高齢者になるだろうなと思われますね。
円熟とは到底言えない姿でしょう?
これってね。
こういうことはみっともないことですし、
ただの迷惑物に過ぎない人だと真吾オジサンなどは思いますけれどね。
恥を知れ、と言わざるを得ないと思いますよ。
利のこともてげてげにせんとね。