2013511

 

 

 

真吾オジサンの雑感

 

 

 

朱子学の敬について。

 

 

 

 

今回の雑感も朱子学のことについて書きます。

 

今回は「敬」についてです。

 

 

 

「敬」と言いますと、「敬意」の「敬」のことを思われる方が多いですよね。

 

 

 

広辞苑には

 

【敬】 けい

(呉音はキョウ)うやまうこと。つつしむこと。

「敬愛・敬語・尊敬・愛敬(あいきょう)」

 

 

と書かれてあります。

 

 

 

この「敬」を「誠」とほぼ同一視している風もあるのですが、

 

これは朱子学では異なるとされているようです。

 

 

朱熹(しゅき)は、誠と敬とはその指意同じからずとして

 

誠ハ是レ真実、敬ハ是レ畏謹」というて両者を区別しております。

 

 

 

 

今回も朱子学の本から引用しておきましょうね。

 

 

 

 

程先生は、「主一ヲコレ敬ト謂イ、無適ヲコレ一ト謂ウ」といった。

朱文公は、この二つを合わせて「主一無適ヲコレ敬ト謂ウ」といわれたが、

これによって敬の意味が以前にもまして明らかになった。

敬ということは、昔の経書にもしばしば出てくるが、

あなどらないという意味で説かれているにすぎない。

二程子になって、始めてこの敬を特別に取り出して、

学ぶ者の工夫と関係させて説いてきた。

(略)

 

 

 

人の心のはたらきは、霊妙であって、推し測ることができず、

出入に決まった時がなくて、その居場所が分からない。

敬はその心を主宰し統御するためのものである。

もし敬がないと、心の行方は全く分からなくなってしまう。

敬でありさえすれば、心は失われずちゃんと存在する。

敬というのは、他でもない、この心が失われずにちゃんと保持されていて、

走りまわらず、散漫にならず、常にぱっちりと目覚めているのが、つまり敬である。

 

 

 

主一とは、心がこの事をつかさどって、別の事をそれに差し挟むことが全くないのである。

もし一つの事をしていて、さらに二つめの事を差し挟み、さらに三つめの事をそれに加えるならば、

主一ではなく、敬ではないのである。

(略)

 

 

 

何も用がない時、心が常にここにあって走りまわらないのは、もちろん、主一である。

用事ができた時、心はそれに応じていくが、それに第二第三の事を差し挟まないならば、

これも主一である。

 

 

 

無適とは、心が常にここにあって、

東にも往かず、西にも往かず、南にも往かず、北にも往かないことだ。

 

 

 

程先生は、人心について工夫をする場合、特にこの敬ということに意を注いだ。

思うに道理というものは、動静を貫き、表裏に徹し、

終始を一にしていても、もともと限界がないのであるから、

何の用事のない静かな時にも敬を用い、事物に応接する時にも敬を用いる。

心が内にあってじっとしている時にも敬を用い、動いて外に出てきて仕事をする時にも敬を用いる。

仕事を始める時にも敬を用い、仕事を終える時にも敬を用いる。

この心は常に途切れることがないのであるから、途切れると敬ではなくなる。

 

 

 

整斉厳粛は、敬の容である。

たとえば座った時、身体が傾いていたり、服装がだらしないのは、つまり敬ではないのだ。

 

 

 

 

こう書かれてありました。

 

 

 

ここ最近の雑感は朱子学のことばかりを書いておりますので、

 

この雑感をご覧の将棋愛好家の方にとりましては、

 

もしかしましたらこういうことを退屈なことと・面白くないことと思われるかもしれませんが、

 

まあ、たまにはこういうことにも関心を持ちましょうね。

 

 

 

 

こういうことでも一応は知っておかれますと、様々な文化に対する理解者にもなれるはずですからね。

 

東アジアの文化は朱子学を無視して、それは語れるものでもないですからね。

 

そういう意味で無駄にはならないことを書いているつもりではあります。

 

 

 

 

まあ、そう書いてもまだ何のことだかさっぱり分からんなぁ〜とか、

 

そんなことはないだろう、と反論をされる方もきっと多いことでしょうけれどね。

 

 

 

 

 

 

 

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