2013年5月15日
真吾オジサンの雑感
相撲について。 つづき
今回の雑感は、前回の雑感のつづきです。
その一方で、能や狂言のように、相撲も、観て楽しむことが武家の中で広まった。
神事や武術ではなく、娯楽としての相撲である。
そのために、武家は自前の相撲取りを抱えるようになり、やがて諸国から集めてきた相撲人を戦わせるようになった。
江戸時代に入っても、諸大名は“相撲組”とか“相撲衆”というものを作って、大名同士で競い合うようになる。
まさに武門の意地と誇りにかけて、壮烈な戦いがあったと思われる。
その間、神事の伝統相撲はもちろん続いていたが、武術である「ガチンコ相撲」を、一般庶民も観たくなるのは人情である。
そこで、入場料を取って相撲を観ることができるようにと登場したのが、勧進相撲であった。
神社仏閣の改築や修繕に使うというのが名目だが、境内に作られた櫓と土俵で繰り広げられる、
本気でぶつかる相撲取りの力と技に、町人や農民はヤンヤの大喝采だった。
これら勧進相撲は京で始まり、大坂に広がり、やがて江戸でも興行されるようになる。
興行が成功すると、寺社や興行師が勧進元になるのではなく、
相撲取り出身の頭取(年寄)が中心となって、定期的な興行をするようになるのは自然の理であろう。
江戸時代の初期には、風紀の問題から禁令が出されていたが、貞享年間には再開され、
元禄時代の上方相撲を経て、享保の時代になって、幕府は“年寄株”を認めて株仲間を組織し、
いわば歌舞伎を公許の芝居としたように、京、大坂、江戸において、
公儀お墨付きの勧進相撲興行をさせたのである。
そこから、谷風、八角、小野川のような有力力士が登場して、
11代将軍家斉の時代には、江戸城内にて上覧相撲が実現した。
そのため相撲の中心は江戸になり、現代まで何百年も続く国技となったのだ。
こういうことだそうです。
歴史を知りますと面白いですよね。
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