2013年5月16日
真吾オジサンの雑感
克伐怨欲について。
「克伐怨欲」は「こくばつえんよく」と読みます。
論語に出てくる言葉です。
論語の本から引用しましょう。
「克伐怨欲行われざる。以て仁と為すべし。」
子曰はく「以て難しと為すべし、仁は則ち吾知らざるなり。」
[通釈]
原憲(げんけん)が己の能くする所をもって孔子に問うて曰うには
「克(他に勝つのを好むこと)伐(自らすぐれているとほこること)
怨(忿り恨むこと)欲(貪って厭き足りないこと)の四つが心に起ろうとするのを
制して行われないようにするのは仁ということができましょう。」
孔子「この四つの心が起るのを制して行われないようにするのは困難なことであるが、
仁だかどうだかわしは知らぬ」
仁者は正しい道理が心に備わって自然に四つのものが起らないので、
制して行われないようにするのではない。
[解説]
この章は仁は私を制するのではないことを見(しめ)したのである。
およそ人として克伐怨欲のないのはただ仁者だけである。
克伐怨欲があっても能くその情を制して行われさせないことは、能くし難いことであるけれども、
これを仁とはまだいわれない。
これを孔子が深く教示されたのであるが、原憲が再び問うことのできなかったのは惜しいことである。
「ある人は、克伐怨欲の行われないのは固より仁とはいわれないが、
また己に克つ事で、仁を求める方(みち)ではないか」と曰うが、
己に克って礼に復れば、私欲は留まらないで天理の本然なる者が得られるのである。
もしただ制して行われないようにするならば、まだ病根を抜き去る意がなくて、
それが胸中に潜伏していることを容(ゆる)すのである。
どうして己に克ち仁を求めることであろうか。
学者は克伐怨欲不行(ふぎょう)と克己復礼(こっきふくれい)との間を明察するならば、
その仁を求めるところの工夫が、益(ますます)親切で遺漏がないのである。(程子の説)
こういうことだそうです。
「克己復礼」という言葉をどうも勘違いして受け取っている方にも
今回の雑感に書きましたことをご覧頂きたいと思いますね。
この勘違いをしている人がどうも多いように思っておりますのでね。
カッコ悪いのでこういう勘違いははやく修正しましょうね。