2013年5月17日
真吾オジサンの雑感
小道について。
今回の雑感も儒教のことです。
今回は「小道(しょうどう)」について書きます。
論語にこう書かれてあるところがあります。
子夏曰、雖小道必有可觀者焉。致遠恐泥。是以君子不爲也。
子夏(しか)曰く、
小道と雖も必ず観るべき者あり。
遠きを致せば恐らく泥(なづ)まん。
是(これ)を以て君子は為さざるなり。
[通釈]
一技一藝のような小道でも必ず至理を寓(ぐう)し、世用(せよう)を資(たす)けて観るべき所がある。
しかしこれを押し広めて天下国家を治めるような遠大な事業を行うには恐らく泥(なづ)んで通じない所がある。
それ故君子は己を修め人を治める大道に心を用いて、一技一藝のような小道を学ぶことはしないのである。
こういうことだそうですよ。
平成濁世(濁世は佛教語ですが)では、小道に過ぎないことを大道の如くに思うていること・人が多いように思いますね。
考えものですよね、これはね。
小道のことは、所詮は小道に過ぎぬと諦念することも
大切なことだと真吾オジサンなどは思いますね。
諦念のことに言及しましたので、ついでに書いておきますが、
この平成濁世って、諦念ということを知らなさすぎですよね。
権利とか、人権とか、人格権とか、アンチ・エイジングとか、
なんとかかんとかもっともらしいことを言うて
理論武装したりしておりますけれどね。
平成濁世の日本人はもっと諦念ということを知らないと駄目だと思いますね。
オジサンはオジサンでいいのですし、オバサンはオバサンでいいのです。
これをどうにかして否定しようとしたがるところにそもそも無理があるのです。
これを否定したがる涙ぐましいまでの努力などは、
真吾オジサンなどは笑わざるを得ない気持ちにはなりますけれどね。