2013年5月18日
真吾オジサンの雑感
論語について。
ここ最近は儒教の本に目を通す時間が増えました。
ただ、今までとは違いまして人物中心で読んでおります。
今までは
「ふむふむ… 聖人ともなるといいことをいいなさるな。
本当はこうするのがいいのではあるのでしょうけれどね…」
こういう風にまあ読んでいたわけなのですが、
特定の登場人物のことはそれほどにも思っていないで論語を読んでおりました。
これを顔回とか子路とか、論語の中の特定の登場人物のところだけをまとめて読むようにしたのです。
こうしますと、今までとは異なりまして、論語を新鮮に感じるようにも思いました。
論語が聖人君子になるための有難い教えの宝庫ではなくて、
人間らしさといいますか、親しみやすさといいますか、そういう風に感じられました。
子路という人は勇ましい人だったそうです。
孔子は弟子によってその教え方を変えていたのですが、
子路は勇ましくて名声を重んじるようなところがあったようなのです。
それなので、孔子は子路に教えるときにはそれなりの教え方をしたそうです。
今まではこういうことをあまり思うこともなく論語を読んでいたのですが、
こういう読み方をしますと、今までとは違って論語が見えるような気にはなりました。
こういうことは、仏教でもそうなりそうですし、聖書でも、
例えば、パウロならパウロのところだけしか読まないようにすると、
同じように今までとは異なって見えるようになりそうに思いますね。
ただいまそのようなことを思うております。