2013年5月22日
真吾オジサンの雑感
「一貫」について。
今回の雑感も儒教のことについて書きます。
今回は「一貫」について書きます。
論語の里仁篇にこう書かれてあるところがあります。
子曰、參乎、吾道一以貫之。
曾子曰、唯、子出。
門人問曰、何謂也。
曾子曰、夫子之道、忠恕而巳□
※ □のところには、カタカナの「ム」の下に「矢」と書く漢字です。文の終わりに書く字なのですが、
漢字変換できませんでしたので、取り敢えず□でごまかしております。
子曰はく、「参(しん)、吾(わ)が道は一以て之を貫く。」
曾子(そうし)曰はく、「唯(い)」子(し)出(い)づ。
門人問うて曰はく、「何(なん)の謂(いひ)ぞや。」
曾子曰はく、「夫子の道は忠恕のみ。」
「参(參)」は「曾子」の名です。
「唯」は「はい」という返事にあたる語です。
「忠」は「己の心を尽くすこと」で、「恕」は「己の心を推して人に及ぼすこと」です。
[通釈]
孔子が曾子を呼びつけて曰われるには、
「参よ、わしの道を知っているか。わしが物に応じ事に処するにはただ一つの道理をもってこれを貫通するのである。」
曾子はこれを聞いてなんの疑うところもなく、速やかに「唯(はい)」と曰った。
孔子が退いた後、他の門人が曾子に「一体どういう訳なのですか」と問うた。
曾子が曰うよう、「先生の道は忠恕の外にはありません」
別の儒教(朱子学)の本には以下のように書かれてありました。
一貫
一とは、渾然たる全体としての一理であって、ここに一大本がある。
貫とは、この一理のはたらきが、万事万物の中を貫いていることをいう。
聖人の心は、全体が渾然としている一理であって、これが一大本となっている。
この一大本のはたらきが、作用に現れると、君臣では義となり、父子では仁となり、
兄弟では友となり、夫婦では別となり、朋友では信となる。
さらに分けていうと、父では慈となり、子では孝となり、君では仁となり、臣では敬となる。
(略)
およそ日常生活のなかの、細かいものでは洒掃応対進退、
大きいものでは天地と並んで天地の化育をたすけることに到るまで、
およそ全ての行為、全ての善事は、いずれも皆、この一大本のはたらきが貫通しているのである。
渾然たる一理からいえば、万理は全てその中にきちんと具わっている。
万理として現れたものからいえば、この一理でないものはない。
一だからこそ、万を貫いているのであり、万は皆、一にもとづいているのだ。
一貫は天道である。
「一以ッテコレヲ貫ク」という聖人の語は、曾子に対する説明として、極めて適切なものである。
曾子のいわゆる「忠恕」は、この一貫を形容するためのものであるが、人道という切実なものを借りてきて、
天道という微妙なものを明らかにしたのであり、とりわけ確実適切である。
思うに忠が一に相当し、恕が貫に相当している。
そもそも己の心を尽くして真実無妄であるならば、この心は渾然たる一箇の天理である。
これがつまり大本であって、全てのものはここに具わっているのだ。
この大本に基づいて酬酢応接し、万事となって現れた場合には、どんな事も、この心がもとになって行われているのであり、
どんな道理も、この大本から現れているのである。
つまりこれによって一貫しているところが分かるのだ。
だから曾子の説は、理についていえば、とりわけ確実適切であり、
聖人の蘊奥についていえば、とりわけ至れり尽くせりであり、
そして学ぶ者にとっては、とりわけ有効である。
学ぶ者が道に進み、徳に入ろうとするに当たって、工夫の拠り所となる手掛かりが得られる。
天は、一元の気が息むことなくはたらいているのである。
これがつまり大本であり、太極である。
万物はこの中から流出してくる。
あるものは小さく、あるものは大きく、あるものは高く、あるものは低く、
また鳥であったり、魚であったり、動物であったり、植物であったりして、
みなそれぞれが欲するものを得ている。
万物はそれぞれ一太極を具えており、それぞれが充足していて、欠けたところがない。
これも天が一つ一つ努力して飾り立てたのではなく、すべてが自然にそうなっているのであり、
大本中から流出してきたのである。
これがつまり天が一貫しているといわれるところである。
こう書かれてありました。
繰り返しになりますが、こういう考えは現代人の目には所詮は荒唐無稽なものに過ぎないのですが、
でもこういうことも知っておかれても損になることでもないと思いますね。
東アジアの文化は朱子学の影響が多いのですからね。
そういう意味で、ご参考にして頂けますといいと思うております。
日常後で「終始一貫」とか「一貫した方針」とかいいますが、
こういう使い方とはことなりますよね。
でも、この「一貫」ということばを使ったり、聞いたりしたときには
今回の雑感に書きましたこともたまには思い出して下さいね。