2013525

 

 

 

真吾オジサンの雑感

 

 

 

朱子学の中和について。

 

 

 

 

今回の雑感も儒教について書きます。

今回は朱子学の中和についてです。

 

朱子学の本から引用しましょう。

 

 

 

中和

 

 

中和は性情について説くのである。

そもそも心の本体は性であるが、性は別のものではなく、

心の中に具わっている理に外ならないのである。

この理が動いて外に出てきたのが情である。

中は、事物に接する以前の、喜怒哀楽未発の時の、

渾然としていて少しも偏倚がない状態をいう。

つまりこの未発の時が性である。

発動してくると、喜は喜に偏り、怒は怒に偏って、中とはいえない。

そのように未発の中は、不偏不倚といえるだけで、

過不及ということばは用いることができない。

喜怒哀楽の情が発してきて、それらがみな節に中(あた)った場合を、和という。

和というのは、背き悖(もと)ることがないということである。

心の中にある道理が発動してきて、喜ぶべくして喜び、怒るべくして怒り、

道理に背き悖ることがないのが、つまり節に中るということである。

節に中るというのは、喜怒哀楽の情が当然の理にかなっていて、

少しの行き過ぎもなく、少しの及ばないこともなく、道理に背き悖ることがないのだ。

だから和と名付けたのだ。

 

 

こう書かれてありました。

 

 

この雑感をご覧の将棋愛好家にとりましては、多分こういうことに対しては

ほとんど関心のない方のほうが多いだろうなと勘ぐっているのですが、

でもこういうことも知っておきましょうね。

 

何も儒教ではなくても、仏教でもいいですし、キリスト教、神道でもいいと思いますね。

本気にされるか否かは別にしましてね。

 

真吾オジサンに言わせますと、こういうことにてんで無知にもかかわらず、

伝統が云々と言われましても、どうもそれはね…

という気にもなりますからね。

 

伝統的な世界・文化というものは、本当は宗教性を含んでいるものですからね。

そんなもんだと思いますよ。

そうでないと、文化と仮にいうても、

それは文化住宅というときの文化に過ぎないもののようにも思いますね。

もしくはいくらも変わるところはないと思いますね。

 

そうは思えない方は、真吾オジサンに言わせますと何か勘違いをされておられる方だと思いますね。

無知なので、本当の伝統・文化の世界がそういう風にしか見えないに過ぎないと思いますね。

 

 

 

 

 

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