2013年5月27日
真吾オジサンの雑感
君子は易に居てもって命を俟つ。
今回の雑感も儒教のことです。
「俟つ」は「まつ」と読みます。
「くんしはいにいてもってめいをまつ」と読みます。
これは「中庸」の中の言葉です。
これと対になっているのが、
「小人(しょうじん)は険(けん)を行って幸(こう)を徼(もと)む」
ついでに全部書いてしまいましょうね。
上位(じょうい)に在っては下(しも)を陵(しの)がず、
下位(かい)に在っては上を援(ひ)かず、
己を正しくして人に求めざれば則ち怨なし。
上天を怨みず、下人を尤(とが)めず。
故に君子は易に居てもって命を俟つ。
小人は険を行ってもって幸を徼む。
射(しゃ)は君子に似たるあり、
諸(これ)を正鵠(せいこく)に失いて、諸(これ)をその身に反求すと。
[通解]
上位に在るときは下の者を陵ぎ辱めることなく、
下位に在るときは上の者によりすがって出世を求むることなく、
我が身を正しくして他人に求むることなければ、自然に人を怨むことなし。
上は天を怨む心なく、下は人を尤むる心なく、
君子の胸中灑落(さいらく)にしてさっぱりしている。
すなわちその外を願う心がない。
故に君子は平易なところに居りその位に相応した行為をなして、
もって天命の至るを待ってその外を願わない。
小人はこれに反し身分不相応に無理危険なことを行い、
いかにもして僥倖(ぎょうこう)を得んと冀(こいねが)う。
孔子曰く、弓を射るのは君子に似たところがある。
矢を射放って的の星を射はずしたときには、
姿勢が悪かったか、引きが足らぬか、放れが悪かったか、
どこが悪くて中(あた)らなかったかと、中らぬ訳を自分に立ち反りて求める。
そこが君子の己を正しくして人に求めぬところと似ていると。
君子はいかにもかくのごとく、その位に素(そ)して行い、
外を願わぬものでなければならぬ。
こういうことだそうです。
世間では奇を衒ったに過ぎないことや人をもてはやすことも多いものですよね。
また少しでも大きく見せようとかをしたりもするとしたものですよね。
そうせざるを得ない背景もきっとあるからなのでしょうね。
でも、本当はこういうものでもないと思いますね。
当たり前のことを当たり前のこととしてできる人のほうが本当だと思いますね。
身の丈にあったことを心がけたいものですよね。