2013531

 

 

 

真吾オジサンの雑感

 

 

 

眸子(ひとみ)について。

 

 

 

 

今回の雑感は、儒教の言葉です。

 

孟子にこう書かれてあるところがあります。

 

 

 

 

孟子曰、存乎人者、莫良於眸子、眸子不能奄其惡、胸中正、則眸子瞭焉、

胸中不正、則眸子眊、聽其言也觀其眸子、人焉廋哉、

 

 

孟子曰く、人を存(み)るには眸子(ひとみ)より良きはなし。

眸は其の悪を奄(おお)う能わず。

胸中正しければ則ち眸子瞭(あき)らかなり。

胸中正しからざれば則ち眸子眊(くら)し。

其の言を聴きて其の眸子を観れば、人焉(いずく)んぞ廋(かく)さんや。

 

 

孟子がいわれた。

「人物〔の善悪〕を見分けるには、瞳にまさるものはない。

瞳は正直なもので、その人の心の中の悪を掩(おお)いかくすことができないからだ。

胸の中(すなわち心)が正しければ、瞳は明るく澄んでいるが、

胸の中が正しくないと、瞳は暗く曇っているものだ。

だから、相手の言葉をよく聞きながら、その瞳をよく観察すれば、

誰がいったいその心の中をかくしきれようか。

とうていかくしきれるものではない。」

 

 

 

 

孟子ともなりますといいことを言うておりますよね。

 

そうだよなぁ〜って思いますよね。

 

算盤勘定ばかりの人の顔つきと言いますか、その瞳はやはりそういう顔・瞳ですよね。

マルチまがい商法ばかりしている人の顔も、その瞳もやはりどこか嘘くさいものですもんね。

 

 

先生稼業の人も、やはり大体はそういう顔・瞳になっておりますよね。

ご本人はもしかしたら自覚はないかもしれませんが、

男性の先生でも、女性の先生でもやはりこういうところはあると思いますね。

 

先生稼業の人の場合は、顔・瞳は仮にそうでなくても、

話しぶりで大体は察しがつくようなところはありますよね。

真吾オジサンなどは直ぐにピンとくるところはありますけれどね。

 

程度の違いはあるのですが、どこか浮世離れしていたり、

関心をもっていらっしゃるところが、そうでない方とは異なっていたりするものですからね。

 

女性の先生ですと、おしゃれも含めて体面を気にするとか、ある種の無謬性を保ちたがるとかね。

割と愛想はいいが、意外と頑固であるとかね。

権威主義的だったりとかね。

 

世間の多くの人に

「法律上、そういうことはできないことになっているのです。」

こう伝えることも多いのですが、そう伝えましてもまだあれこれと言い出す人が

この平成濁世には非常に多いのですが、

こういうことは先生稼業の人には割と少ないですからね。

 

「そうか、それならしようがないな」

となられる方が多いですね、真吾オジサンの経験ではね。

 

 

そんなこんながあって、その方と初対面の時でも、

「ああ、この方は多分何かの先生だろうな。」

こんな風に思うのですが、それで、

「もしかしますと、何かの先生のお仕事をされていらっしゃいますか?」

とその方に言いますと、

「えっ、なぜ分かるのですか?」

とかおっしゃられますけれどね。

 

 

 

話が変な方向に進んでしましたが、

少年・少女の頃のピュアなところがあるうちって、やはり瞳がキレイですよね。

 

こういう少年・少女のピュアな眼差しを前にしますと、

「オジサンが余計なことを言うて、この瞳を曇らせてはならないな」

なんて気にもなりますからね。

 

 

 

 

人をみるには眸子(ひとみ)より良きはなし

 

覚えておいてもいい言葉のように思いますね。

 

 

 

 

 

 

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