2013年7月2日
真吾オジサンの雑感
徒然草と琵琶について。 その2
先日、このことについて書きましたが、今回もこのことについて書きます。
音楽之友社さんが「音楽中辞典」という辞典を出しておられるのですが、
この辞典の中に「平家」ということが書かれてあります。
まずは、これをご覧いただきましょうね。
平家(へいけ)
琵琶楽の一種。
《平家物語》を琵琶の伴奏で語る音楽。
「平曲」ともいうが、伝統的な名称は「平家」。
起源については、鎌倉時代に天台宗座主(ざす)に庇護されていた
信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)が文章を作り、
生仏(しょうぶつ)という盲目に語らせたという《徒然草》226段の説が有名。
生仏は琵琶法師で、その音楽が、講式などの和文声明(しょうみょう)とともに、
平家の重要な母体となったと思われる。
その後、一方(いちかた)流と八坂(やさか)流に別れ、
一方流に出た覚一検校(かくいちけんぎょう)は、詞章や節付けを整理し、
平家を語る盲人の座、当道座を確立し、平家隆盛の基礎をきずいたとされる。
応仁の乱(1467−78)を境に平家は衰退に向かう。
江戸時代に当道座の活動の中心は箏(そう)・三味線や鍼灸按摩に移るが、
平家は当道の表芸や幕府の式楽として演奏された。
また、茶人・俳人などの晴眼者も、教養を兼ねた趣味として平家を語ったので、譜本が発達した。
1871年(明治4)に当道座が廃止されると、平家は急速に衰退するが、
名古屋の盲人地歌(じうた)箏曲家によって今日まで当道座の伝統が守られ、
現在は今井勉が約8曲を演奏する。
また、平家を愛好した津軽藩士の家系に出た館山甲午(たてやまこうご)が、
譜本を頼りに昭和末年まで平家を演奏していた。
こう書かれてありました。
では、徒然草の226段にはどう書かれてあるのか?ということになりますよね。
これも引用しておきましょうね。
徒然草 第二百二十六段
@ 後鳥羽院(ごとばのゐん)の御時(おんとき)、
A 信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)、B稽古(けいこ)の誉(ほまれ)ありけるが、
C楽府(がふ)の御論議(みろんぎ)の番(ばん)に召(め)されて、
D七徳(しちとく)の舞(まひ)を二つ忘れたりければ、
五徳(ごとく)のE冠者(くわんじや)と異名(いみやう)を附(つ)きにけるを、
心憂(う)き事にして、学問を捨てて遁世(とんぜい)したりけるを、
F慈鎮和尚(じちんくわしやう)、一芸(いちげい)ある者をば、G下部(しもべ)までも召し置きて、
不便(ふびん)にせさせ給ひければ、この信濃入道(しなののにふだう)をH扶持(ふち)し給ひけり。
この行長入道(ゆきながにふだう)、I平家物語を作りて、
J生仏(しやうぶつ)といひける盲目(まうもく)に教へて語らせけり。
さて、K山門(さんもん)の事を殊(こと)にゆゝしく書けり。
L九郎判官(くらうはうぐわん)の事は委(くは)しく知りて書き載(の)せたり。
M蒲冠者(かばのくわんじや)の事はよく知らざりけるにや、多くの事どもを記し洩(も)らせり。
武士の事、N弓馬(きうば)の業(わざ)は、生仏(しやうぶつ)、東国(とうごく)の者にて、
武士に問ひ聞きて書かせけり。
かの生仏が生まれつきの声を、今のO琵琶法師は学びたるなり。
@ 第八十二代の天皇。高倉天皇の皇子。1183年、践祚(せんそ)。1198年、土御門天皇にご譲位、
ひき続き院政を始められ、1221年の承久の乱に失敗し、隠岐の島に遷され、1239年、六十歳でその地で崩御。
「御時」は、天皇のご治世の期間。ここでは1183年から1198年までのあしかけ十六年間と、
ひき続き院政を執られて、1221年の承久の欄に及ぶまでの間を含めて言っている。
A 信濃の国の前任の国司(地方官)。
「行長」は、中山行隆(なかやまのゆきたか)の三男で、
従五位下、下野守(しもつけのかみ)と『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』にある。
「信濃前司」は、誤伝。
B 古典を読み究めて学問することが深いという名声・評判。
C 漢詩の一体で、漢の武帝が、歌謡を採集し、制定した官署の名にもとづくが、
後世には、その調を模倣して作る詩をも称する。
ここでは『白氏文集(はくしもんじゆう)』巻三・四にある「新楽府」の計五十首の詩を指す。
「御論議」は、それの問題点につき、天皇の御前で行われる討議。
「番」は、当番。
D 『白氏文集』巻三の「新楽府」の最初にある詩篇。
「夫レ、武ハ、暴ヲ禁ジ、兵ヲ戢(ヲサ)メ、大ヲ保(タモ)チ、功ヲ定メ、民ヲ安ンジ、衆ヲ和シ、財ヲ豊カニスル者ナリ」
(『左伝』の宣公十二年の条)とあるのによって、唐の太宗が陣中で作った舞のことであるが、白楽天はそれを詩に作っている。
E 元服して、冠を加えられた、少年(十二歳から十五、六歳まで)の称。
「異名」は、あだ名。ここは、周囲の人たちがあだ名をつけたのを、情けないことと思って、の意。
「遁世」は、遁世者。世捨人。中年で出家し、世俗の実務から退き、仏道に志す者。
F 「吉水和尚」。慈円(じえん)僧正。天台座主。歌人。1225年寂、七十九歳。京都市東山吉水に隠居した。
「和尚」は、高僧への尊称。
G 下僕までも召しかかえて、かわいがってめんどうを見ておやりになったので。
H 生活を助けてお世話なさった。
I 平家一門がその栄華と悪行が因をなして、源氏の勢力の勃興により、衰退・滅亡するまでを描いた軍記物語。
琵琶法師により、平曲として語られ、流布した。
この段は、その成立事情を記す資料として名高い。
J 山田孝雄氏によれば、性仏(しようぶつ)即ち姉小路資時(あねのこうじすけとき)。
当時、郢曲(えいきょく)の方面において、天下第一の名人と言われたという。
1186年に出家した時は、二十六歳か二十八歳と推定されているが、没年は未詳。
K 寺門(即ち三井寺)に対して、比叡山延暦寺。
「ゆゝしく」は、すばらしく、格別に。
L 源義経。「九郎」は、源義朝の九男、「判官」は、検非違使の尉に1184年に任ぜられたのによる。
M 源範頼(のりより)。義朝の六男。弟の義経と協力し、木曽義仲・平家を討滅した。
後に、三河守となったが、兄頼朝に疑われ、1193年に伊豆の修禅寺(しゅぜんじ)で殺されたという。
享年未詳。
「蒲」は、遠江の国浜名郡蒲御厨(はまなぐんかばのみくりや)に生まれたのによる。
N 弓射と乗馬によって、武芸・武術の全体を代表させた語。
O 『平家物語』などを琵琶の伴奏で語って聞かせる、僧形で盲目の出家者。
こう徒然草には書かれてありました。
どうぞ、ご参考のほど。