201372

 

 

 

真吾オジサンの雑感

 

 

 

徒然草と琵琶について。 その2

 

 

 

 

先日、このことについて書きましたが、今回もこのことについて書きます。

 

 

 

音楽之友社さんが「音楽中辞典」という辞典を出しておられるのですが、

 

この辞典の中に「平家」ということが書かれてあります。

 

まずは、これをご覧いただきましょうね。

 

 

 

平家(へいけ)

 

 

琵琶楽の一種。

 

《平家物語》を琵琶の伴奏で語る音楽。

 

「平曲」ともいうが、伝統的な名称は「平家」。

 

起源については、鎌倉時代に天台宗座主(ざす)に庇護されていた

 

信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)が文章を作り、

 

生仏(しょうぶつ)という盲目に語らせたという《徒然草》226段の説が有名。

 

生仏は琵琶法師で、その音楽が、講式などの和文声明(しょうみょう)とともに、

 

平家の重要な母体となったと思われる。

 

その後、一方(いちかた)流と八坂(やさか)流に別れ、

 

一方流に出た覚一検校(かくいちけんぎょう)は、詞章や節付けを整理し、

 

平家を語る盲人の座、当道座を確立し、平家隆盛の基礎をきずいたとされる。

 

応仁の乱(146778)を境に平家は衰退に向かう。

 

江戸時代に当道座の活動の中心は箏(そう)・三味線や鍼灸按摩に移るが、

 

平家は当道の表芸や幕府の式楽として演奏された。

 

また、茶人・俳人などの晴眼者も、教養を兼ねた趣味として平家を語ったので、譜本が発達した。

 

1871年(明治4)に当道座が廃止されると、平家は急速に衰退するが、

 

名古屋の盲人地歌(じうた)箏曲家によって今日まで当道座の伝統が守られ、

 

現在は今井勉が約8曲を演奏する。

 

また、平家を愛好した津軽藩士の家系に出た館山甲午(たてやまこうご)が、

 

譜本を頼りに昭和末年まで平家を演奏していた。

 

 

 

 

こう書かれてありました。

 

 

 

では、徒然草の226段にはどう書かれてあるのか?ということになりますよね。

 

これも引用しておきましょうね。

 

 

 

徒然草 第二百二十六段

 

 

 

@  後鳥羽院(ごとばのゐん)の御時(おんとき)、

 

A  信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)、B稽古(けいこ)の誉(ほまれ)ありけるが、

 

C楽府(がふ)の御論議(みろんぎ)の番(ばん)に召(め)されて、

 

D七徳(しちとく)の舞(まひ)を二つ忘れたりければ、

 

五徳(ごとく)のE冠者(くわんじや)と異名(いみやう)を附(つ)きにけるを、

 

心憂(う)き事にして、学問を捨てて遁世(とんぜい)したりけるを、

 

F慈鎮和尚(じちんくわしやう)、一芸(いちげい)ある者をば、G下部(しもべ)までも召し置きて、

 

不便(ふびん)にせさせ給ひければ、この信濃入道(しなののにふだう)をH扶持(ふち)し給ひけり。

 

 

この行長入道(ゆきながにふだう)、I平家物語を作りて、

 

J生仏(しやうぶつ)といひける盲目(まうもく)に教へて語らせけり。

 

さて、K山門(さんもん)の事を殊(こと)にゆゝしく書けり。

 

L九郎判官(くらうはうぐわん)の事は委(くは)しく知りて書き載(の)せたり。

 

M蒲冠者(かばのくわんじや)の事はよく知らざりけるにや、多くの事どもを記し洩(も)らせり。

 

武士の事、N弓馬(きうば)の業(わざ)は、生仏(しやうぶつ)、東国(とうごく)の者にて、

 

武士に問ひ聞きて書かせけり。

 

かの生仏が生まれつきの声を、今のO琵琶法師は学びたるなり。

 

 

 

@       第八十二代の天皇。高倉天皇の皇子。1183年、践祚(せんそ)。1198年、土御門天皇にご譲位、

ひき続き院政を始められ、1221年の承久の乱に失敗し、隠岐の島に遷され、1239年、六十歳でその地で崩御。

「御時」は、天皇のご治世の期間。ここでは1183年から1198年までのあしかけ十六年間と、

ひき続き院政を執られて、1221年の承久の欄に及ぶまでの間を含めて言っている。

 

 

A 信濃の国の前任の国司(地方官)。

  「行長」は、中山行隆(なかやまのゆきたか)の三男で、

従五位下、下野守(しもつけのかみ)と『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』にある。

「信濃前司」は、誤伝。

 

 

B 古典を読み究めて学問することが深いという名声・評判。

 

 

C 漢詩の一体で、漢の武帝が、歌謡を採集し、制定した官署の名にもとづくが、

後世には、その調を模倣して作る詩をも称する。

ここでは『白氏文集(はくしもんじゆう)』巻三・四にある「新楽府」の計五十首の詩を指す。

「御論議」は、それの問題点につき、天皇の御前で行われる討議。

「番」は、当番。

 

 

D 『白氏文集』巻三の「新楽府」の最初にある詩篇。

  「夫レ、武ハ、暴ヲ禁ジ、兵ヲ戢(ヲサ)メ、大ヲ保(タモ)チ、功ヲ定メ、民ヲ安ンジ、衆ヲ和シ、財ヲ豊カニスル者ナリ」

  (『左伝』の宣公十二年の条)とあるのによって、唐の太宗が陣中で作った舞のことであるが、白楽天はそれを詩に作っている。

 

 

E 元服して、冠を加えられた、少年(十二歳から十五、六歳まで)の称。

  「異名」は、あだ名。ここは、周囲の人たちがあだ名をつけたのを、情けないことと思って、の意。

  「遁世」は、遁世者。世捨人。中年で出家し、世俗の実務から退き、仏道に志す者。

 

 

F 「吉水和尚」。慈円(じえん)僧正。天台座主。歌人。1225年寂、七十九歳。京都市東山吉水に隠居した。

  「和尚」は、高僧への尊称。

 

 

G 下僕までも召しかかえて、かわいがってめんどうを見ておやりになったので。

 

 

H 生活を助けてお世話なさった。

 

 

I 平家一門がその栄華と悪行が因をなして、源氏の勢力の勃興により、衰退・滅亡するまでを描いた軍記物語。

琵琶法師により、平曲として語られ、流布した。

この段は、その成立事情を記す資料として名高い。

 

 

J 山田孝雄氏によれば、性仏(しようぶつ)即ち姉小路資時(あねのこうじすけとき)。

当時、郢曲(えいきょく)の方面において、天下第一の名人と言われたという。

1186年に出家した時は、二十六歳か二十八歳と推定されているが、没年は未詳。

 

 

K 寺門(即ち三井寺)に対して、比叡山延暦寺。

  「ゆゝしく」は、すばらしく、格別に。

 

 

L 源義経。「九郎」は、源義朝の九男、「判官」は、検非違使の尉に1184年に任ぜられたのによる。

 

 

M 源範頼(のりより)。義朝の六男。弟の義経と協力し、木曽義仲・平家を討滅した。

  後に、三河守となったが、兄頼朝に疑われ、1193年に伊豆の修禅寺(しゅぜんじ)で殺されたという。

  享年未詳。

  「蒲」は、遠江の国浜名郡蒲御厨(はまなぐんかばのみくりや)に生まれたのによる。

 

 

N 弓射と乗馬によって、武芸・武術の全体を代表させた語。

 

 

O 『平家物語』などを琵琶の伴奏で語って聞かせる、僧形で盲目の出家者。

 

 

 

 

こう徒然草には書かれてありました。

 

 

 

どうぞ、ご参考のほど。

                                                                                                                                                                                          

 

 

 

 

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