2013年8月16日
真吾オジサンの雑感
旧悪を念(おも)はず。
久しぶりに論語の言葉を雑感に書きましょうね。
公冶長第五にこう書かれてあるところがあります。
子曰、伯夷叔斉、不念旧悪。怨是以希。
子曰く、伯夷(はくい)叔斉(しゅくせい)は
旧悪(きゅうあく)を念(おも)はず。
怨(うら)み是(ここ)を以て希(まれ)なり。
[通釈]
伯夷叔斉は悪を悪(にく)む心の強い人であるけれども、
その悪むところの人が能く改めれば、
往日(むかし)の悪事をすっかり忘れてしまう。
それ故、この二人から悪まれた人も、甚だしくは二人を怨まない。
叔斉のことが広辞苑に書かれてあります。
【叔斉】しゅくせい
殷の処士。孤竹君の次子。伯夷(はくい)の弟。
父に自分の世嗣にする心があったが、弟であるというので受けなかった。
周の武王が殷の紂王を討つに当って、伯夷と共に、
臣が君を弑する不可を説いて諌めたがきかれなかったので、
周が天下を統一するや、その粟を食うことを恥じて首陽山に隠れ、
わらびを食って共に餓死したと伝える。
旧悪(以前の不善)は念(おも)わないほうがいいのでしょうね。
本当はね。
こっ酷く恨まれたくなければね。
儒教なので、「水に流す」というのも変な感じもしますが、
こういうことも大切ですよね。
この平成濁世は、水に流すということを知らない人が多すぎですよね。
老若男女を問わずそういう気がしますね。
「水に流すと損ではないか! これは水に流せるようなことではないぞ!」
とかなんとかあるのでしょうね。
それもそうに違いないこともきっとあるはずですが、
でも本当に下らないことにまでも、この水に流せない人が多いですね。
嘆かわしいご時世でございます。
草臥れますよね。