2013830

 

 

 

真吾オジサンの雑感

 

 

 

大山康晴名人について。

 

 

 

 

気が向きましたので、「大山康晴の晩節」という文庫本を読みました。

 

 

 

この中にこう書かれてあるところがありました。

 

 

 

対局者と観戦記者との間には微妙な関係がある。

 

どちらの立場が強いか、と言えば、対局者の方で、それは今でも変わらない。

 

棋士のなかにはうるさ型もいて、気に入らない観戦記者だと

 

「あいつがいては指せない」などと平気で言う。

 

指してもらわないと困るから、担当者は無難な観戦記者を選び、

 

したがってお追従を書き連ねたような観戦記ばかりになる。

 

 

升田もかなりうるさかったらしく、金子金五郎九段の文中に気にくわなかった箇所があったとき、

 

満座の中で金子師に向い

 

「金子の代りはいくらでもいるが、升田の代りはいない」

 

と言い放ったそうだ。

 

 

だから、升田が対局者だったら、升田を悪しざまに言ったり書いたりした者に、

 

観戦記を頼むようなことは絶対にしない。

 

大山だからそれをやった。

 

カンぐれば、ここいらに朝日と大山(毎日)の対抗意識が見られる、と言えなくもない。

 

 

大山は観戦記者の人選にあれこれ言うことはなかったようである。

 

五味康祐が盤側に居ても平然としていられた。

 

かえって力が出たかもしれない。

 

それだけ人間の器が大きかったのだ。

 

 

 

 

 

こう書かれてあったのですが、今でもこんな感じなのでしょうかね?

 

対局者と観戦記者との関係ってね。

 

 

 

この大山流のほうが正しいですよね。

 

よほど酷い観戦記を書かれた場合ならば兎も角も、人並みに書いてあっても、

 

些細な部分にまで毎度あまりにあれこれと目くじらを立てられますと、

 

これはもうかなわんでしょうからね。

 

 

 

でもこういうエピソードを見ても、大山名人は苦労人だったのだと思いますね。

 

 

 

というよりも、このプロ棋士という人種は、別の仕事をした社会経験が少ないので、

 

どうもこんなことになるように思いますね。

 

 

 

他の仕事でも、実に瑣末なことを執拗にグチャグチャと言い続ける人、

 

‐最近ではこういう言い方をしますと怒られもするのですが‐

 

女の腐ったような人とか、2ちゃんねらーのような人もいくらでもいるのではありますが、

 

こういう人って、大概は狭い社会の中にいる人ですよね。

 

 

 

このわかりやすい例は、山村部ですね。

 

この山村部というところは、関心の対象が近所と親戚とテレビ・ラジオくらいなのです。

 

これらのことを何時までたってもグチャグチャと言い続けるのです。

 

 

 

これがババアなんかでしたら、

 

「あそこの〜さんの女房は、病院からタクシーで帰ってきたらしいのよ。馬鹿よねぇ、もったいない…」

 

こういうことを執拗なまでに言い続けるババアも今でも本当におりますからね。

 

 

 

別に他人がタクシーで帰ろうとどうでもいいだろうにと思わざるを得ないのですが、

 

山間部のババアはこういうことにでも並々ならぬ執着をすることもあるのです。

 

 

 

器が小さすぎですよね。

 

 

 

 

営業系の人で次から次に新しい人に出会う・またそうしなければならない人でしたら、

 

いつまでもいつまでもグチャグチャと言うている暇もないのですからね。

 

「次は〜せねば!!」

 

に追われているので、そうしていることもないのです。

 

 

 

 

大山名人は、戦後に別の仕事で糊口を凌がれたそうなので、

 

世間というものをご存知だったのでしょうね。

 

多分、そうだろなと思いますね。

 

 

 

こうした経験があったので、屁みたいなことに狼狽えることもなかったのでしょうね。

 

 

 

 

 

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