2014年9月9日
真吾オジサンの雑感
思へば、舟に乗りてありく人ばかり、あさましうゆゆしきものこそなけれ。
この雑感は一昨日の晩の2014年9月7日に書いております。
先ほどLPSA関連のtwitterを見たのですが、クルージングのことが沢山書かれてありました。
それらを読みまして、ただいま拾い読みしている枕草子のことを思いました。
枕草子にこう書かれてあるところがあるのですよ。
長いのですが引用させて頂きましょう。
〔二九0〕
うちとくまじきもの
えせ者。あしと人に言はるる人。さるは、よしと人に言はるる人よりも、うらなくぞ見ゆる。舟の道。
日のいとうららかなるに、海の面(おもて)のいみじうのどかに、浅緑の打ちたるを引きわたしたるやうにて、
いささか恐ろしきけしきもなきに、若き女などの、あこめ、袴など着たる、侍(さぶらひ)の者の若やかなるなど、櫓(ろ)といふ物押して、
歌をいみじう歌ひたるは、いとをかしう、やむごとなき人などんも見せたてまつらまほしう思ひ行くに、
風いたう吹き、海の面ただあしにあしうなるに、ものもおぼえず、とまるべき所に漕ぎ着くるほどに、
舟に波のかけたるさまなど、片時に、さばかりなごかりつる海とも見えずかし。
思へば、舟に乗りてありく人ばかり、あさましうゆゆしきものこそなけれ。
よろしき深さなどにてだに、さるはかなき物に乗りて漕ぎ出つべきにもあらぬや。
まいて、そこひも知らず、千尋(ちひろ)などあらむよ。
物をいと多く積み入れたれば、水際は、ただ一尺ばかりだになきに、
下衆(げす)どもの、いささか恐ろしとも思はで走りありき、つゆあしうもせば沈みやせむと思ふを、
大きなる松の木などの、ニ、三尺にて丸(まろ)なる、
五つ六つ、ほうほうと投げ入れなどするこそ、いみじけれ。
屋形といふもののかたにて押す。
されど奥なるは、頼もし。
端にて立てる者こそ、目くるるここちすれ。
早緒(はやお)とつけて、櫓(ろ)とかにすげたる物の弱げさよ。
かれば絶えば、なににかならむ、ふと落ち入りなむを、それだに太くなどもあらず。
わが乗りたるは、きよげに造り、妻戸(つまど)あけ、格子(かうし)上げなどして、
さ水とひとしうをりげになどあらねば、ただ家の小さきにてあり。
異舟(ことふね)を見やるこそ、いみじけれ。
遠きはまことに笹の葉を作りてうち散らしたるにこそいとよう似たれ。
とまりたる所にて、舟ごとにともしたる火は、またいとをかしう見ゆ。
はし舟とつけて、いみじう小さきに乗りて漕ぎありくつとめてなど、いとあはれなり。
「あとの白波(しらなみ)」は、まことにこそ消えもて行け。
よろしき人は、なほ乗りてありくまじきこととこそおぼゆれ。
徒歩路(かちぢ)もまた恐ろしかなれど、それは、いかにもいかにも地(つち)に着きたれば、いと頼もし。
海はなほいとゆゆしと思ふに、まいて海女(あま)のかづきしに入るは、憂きわざなり。
腰に付きたる緒(を)の絶えもしなば、いかにせむとならむ。
男(をのこ)だにせましかば、さてもありぬべきを、女はなほ、おぼろげの心ならじ。
舟に男(をとこ)は乗りて、歌などうち歌ひて、この栲縄(たくなほ)を海に浮けてありく、
危ふく後(うしろ)めたくはあらぬにやあらむ。
のぼらむとて、その縄をなむ引くとか。
まどひ繰り入るるさまぞ、ことわりなるや。
舟の端(はた)をおさへて放(はな)ちたる息などこそ、まことにただ見る人だにしほたるるに、
落し入れてただよひありく男(をのこ)は、目もあやにあさましかし。
【現代語訳】
〔ニ九0〕
気の許せないもの
身分のいやしい者。悪人と人に言われる人。
しかしそれは、善人だと人に言われる人よりも、腹蔵なく見える。舟旅。
たいそううららかな日和で、海の面がとてものどやかで、浅緑の打ってつや出しした衣を引き延べたような具合で、
ちっとも恐ろしい様子もないのに、若い女などの、あこめに袴など着たのや、
侍の者の若々しいのなどが、櫓という物を押して、歌を盛んに歌っているのは、とてもおもしろく、
身分の高い人などにもお見せ申し上げたいと思いながら行くと、
風が強く吹いてきて、海の面がたちまちに波立ってくるので、
恐ろしさに気もそぞろになって、舟泊りする所に漕ぎ着ける間、舟に波のうちかけた様子など、
まったく一瞬のうちに、あんなに平穏だった海とも見えないことだ。
思ってみれば、舟に乗ってあちこちする人くらい、あきれるほど恐ろしげなものはない。
いい加減の深さなんかでも、そんな頼りない物に乗って漕ぎ出せるものでもないことだ。
まして海は、底の果ても知れず、千尋もあろうというのだもの。
たくさん物を積み込んでいるので、水際はほんの一尺ほどもないのに、下衆(げす)の連中が、
ちっともこわいとも思わないふうで舟の上を走りまわり、
ほんのちょっとでも下手をすれば沈むかと思われるのに、大きな松の木などの、ニ、三尺の長さで丸いのを、
五つ六つ、ポンポンと乱暴に投げ込んだりするのは、恐ろしい。
舟の上の屋形というもののそばで櫓を押している。
けれども奥にいるのは、安心だ。
屋形のそばの舟ばたに立っている者は、見ていても目のくらむような気がする。
早緒(はやお)と呼んで櫓とかにすげた物の、弱そうな様子といったらない。
それが切れてしまったら、何の役にも立ちはしない、途端に海に落ち込んでしまうであろうに、
それだって、太くなどもない。
自分の乗った船は、きれいに仕立てて、妻戸(つまど)をあけ、格子(こうし)を上げなどして、
そんなに水と同じ高さに居るような感じでもないので、ただ家の小さいのの中に坐っているような感じだ。
ほかの舟をながめた感じは、まったく恐ろしい。
遠いのは、ほんとに笹の葉を舟に作って散らばらしたのにまったくよく似ている。
舟どまりした所で、どの舟もどの舟もともしたともし火の明りは、また変わった感じでおもしろいながめだ。
はし舟と呼んで、ひどく小さいのに乗って漕ぎまわる、その早朝の様子など、ほんにあわれ深い。
「あとの白波」は、ほんに歌によまれているように、すぐに消えてはかない限りだ。
相当の身分の人間なら、やはり舟だどに乗ってあちこちすべきものではないと思われる。
陸の旅路もまた恐ろしいものではあろうが、しかしそれは、なんといってもとにかく、
足が地に着いているのだから、まったく安心だ。
海はやはり、どんなことになるかわからなく恐ろしいと思われるのに、
まして、海女(あま)が獲物を獲りに海にもぐるのは、情けないことだ。
腰に付いている縄が切れでもしたら、どうしようというつもりなのだろう。
せめて男がするのならば、それもよかろうが、女はやはりなみたいていの心細さではあるまい。
舟に男は乗って、歌などのんきそうに歌いながら、海女の栲縄(たくなわ)を海に浮かべて漕ぎまわるのは、
あぶなっかしく、心配だとは思わないのであろうか。
海女が浮かび上ろうとする時は、その縄を引くとか聞く。
男があわてふためいて縄をたぐり入れる様子は、まことにもっともなことである。
浮かび上った海女が、舟端(ふなばた)をおさえて吐いた息の鋭い音など、まことに哀切で、
ただ見ている人だって涙をもよおすのに、
それをもぐらせて海の上をあちこちただよう男は、
まったくあきれたもので、その気持ちのほどが知れない。
枕草子にはこのようなことが書かれてありました。
「あとの白浪」は「拾遺集巻二十、沙弥満誓「世の中を何にたとへむ朝ぼらけ漕ぎ行く舟の跡の白波」だそうです。
清少納言はカナヅチだったのかもしれませんね。(笑)
まあそれはそれとしまして、清少納言の海女に対する優しさ、これがいいなぁと思いましたね。