2014914

 

 

 

真吾オジサンの雑感

 

 

 

女性の矯飾について。

 

 

 

 

与謝野晶子評論集を拾い読みしております。

 

 

そこに面白いことが書かれてありましたので、これを紹介させて頂きましょうね。

 

 

 


 

 

産屋物語

 

 

 

女は大昔から男に対する必要上幾分誰でも

 

矯飾(きょうしょく)の性を養うて表面(うわべ)を

 

装う事になっております。

 

で自分の美所も醜所も隠して、なるべく男の気に入るような事を

 

自然男から教えられた通に行うという場合があろうと存じます。

 

女の為す事の過半は模倣であるというのは決して女の本性ではなく、

 

久しい間自分を掩うようにした習慣が居間では第二の性質になったのです。

 

文学を書くにしても女は男の作物を手本にして

 

男の気に入るような事や男の目に映じたような事を書こうとします。

 

女は男のように自己を発揮して作を致す事を遠慮している所から

 

女の見た真の世相や真の女が出て参りません。

 

これを誤解して女には客観描写が出来ず、

 

小説が書けぬもののように申す人があります。

 

 

 

 

しかし徳川時代から明治の今日へ掛けてこそ女流の作家は出ませんが、

 

平安朝以後の文学では男子が皆女の小説を手本にして

 

それを模倣して及ばざる事を愧(は)じております。

 

才分に翔んだ女が真実に自己を発揮したならば、

 

「源氏物語」のような巧な作がこの後とても出来ないとは限りません。

 

紫式部の書いた女性はどれも当時の写実であろうと思われ、女が見ても面白う御座います。

 

女の醜い方面も相当に出ております。

 

それにしてもまだ十分女の暗黒面を

 

「著聞集」や「今昔物語」などのように露骨に書いていないのは、

 

当時の手本である支那文学にそういう類の物がなかったせいでもありましょうが、

 

一つは男に甚く女の醜い所を見せまいという矯飾の心、

 

後世の道徳家の言葉で申せば貞淑の心から書かなかったのでしょう。

 

 

 

(略)

 

 

 

婦人の小説家がこの後成功しようと致すには、

 

従来のように男の方の小説を模倣する事を廃め、

 

世間に女らしく見せようとする矯飾の心を抛って、

 

自己の感情を練り、自己の観察を鋭くして、

 

遠慮なく女の心持を真実に打出すのが最上の法かと存じます。

 

また女の作家がこういう態度で物を書けば、

 

几帳を徹して女の新面目を出すのですから、

 

女の美も醜も能く男の方に解る事になりましょう。

 

また私はこういう態度を取れば女にも小説が書けるものだと信じております。

 

と申すと、女は大変に暗黒面の多い者、御座のさめる事も多い者であって、

 

それを忌憚なく女自身が書いたら風俗を乱すなどと想う人もありましょうが、

 

女とても人ですもの、男と格別変って劣った点のある者でなく、

 

あるいは美しい点は男より多く、醜い点は男より少いかも知れません。

 

女ばかりでなく、男の方も随分まだ醜い所を隠しておられるのではないでしょうか。

 

 

 

「古事記」の女詩人や、小野小町、清少納言、和泉式部などの歌った物を見ますと、

 

女が主観の激しい細やかな詠嘆を残しておりますが、

 

この方には割合に矯飾が行われずに真率に女性の感情が出ております。

 

私は小説家ばかりでなく、詩歌の作者としてもまた新しい婦人の出て来られることを祈っておるのです。

 

 

190931720

 

 


 

 

 

こう書かれてあるところがありました。

 

 

真吾オジサンには面白く思われましたね。

 

 

 

 

この与謝野晶子評論集には、階級闘争がどうのこうのと書かれてあるところもありまして、

 

まあそちらのほうはどうでもいいのですが(笑)、

 

なかなか面白いことが書かれてあるように思いますね。

 

 

 

こういうことで短歌に興味をもってよかったかな?とかも思うております。

 

 

 

 

 

 

 

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