20141016

 

 

 

真吾オジサンの雑感

 

 

 

短歌をまたこしらえております。

 

 

 

 

先日の雑感に書きましたが、短歌・俳句が見事入選しまして、

 

すっかり上機嫌の真吾オジサンなのですが、

 

それでまた最近はちょくちょくと短歌・俳句をこしらえております。

 

 

 

ノートを見ますと、ひと月くらい短歌をこしらえることを横着をしていたのですが、

 

また最近になってポツポツとなのですがこしらえております。

 

 

 

 

短歌をこしらえるぞ!という気持ちになりますと、

 

そういう気持ちになって日常茶飯事のことでも関心をもつようになるものですね。

 

 

 

コスモスの咲きそめにけりはらはらと小雨降りては晴るゝ棚田に 奥山紅葉

 

 

 

この短歌にしたところで、短歌をこしらえよう!という気持ちがないと見流すことではありますよね。

 

 

 

だって、ありふれていると言えばありふれていることなのですからね。(笑)

 

ですからこういうことがあっても表現したいとも思わずに、気づかないでいたと思いますね。

 

 

 

 

この短歌は「小雨降りては晴るゝ」というところですよね。

 

 

 

ここが自慢のところでして、ここらあたりのところは俳句をしているとかでないと

 

やや分かりにくいところかもしれませんよね。(笑)

 

 

 

 

これを簡単に説明しますとね、俳句の世界ってね、たったの五七五ですので、

 

どうしても他人の俳句と似たような俳句になることが多いことにもなるのです。

 

それを意図したわけではないのですが、どうしてもそういうことになりやすいものなんですよ。

 

 

 

将棋で言いますと、将棋には定跡があるでしょう?

 

定跡の本を読んでそこに書かれてあることをとりあえず真似すれば

 

誰でも表面上は似たように指せるわけですね。

 

 

 

 

でもこういう風に誰もが思うようなところのことを俳句にしているようですと

 

「そういう俳句は陳腐だ」

 

という評価に俳句の世界ではなるわけですね。

 

 

 

ここらあたりが将棋の世界とは異なるところでしょうね。(笑)

 

 

 

 

将棋の世界では「そういう一手は誰それさんが指したので、真似をしてはならん。それは剽窃だろう」

 

ということは言わないものですもんね。

 

 

 

 

 

俳句の世界ではね、他人の真似をすることは、

 

どこか恥辱のように思われるものなんですね。

 

 

 

どこかに今までとは違った自分なりの表現をしないと、

 

姑息な人のように思われるところはあると思いますね。

 

「この句はただの真似ジャン!」でね。

 

 

 

 

ですから、俳句の世界では、将棋の世界で言いますと、

 

常に新手一生が求められるようなところはあると思いますね。(笑)

 

 

 

 

この「降りては晴るゝ」という表現。

 

俳句とかしたことのない方でしたらこれをなんとも思わないでしょうけれども、

 

俳句を沢山読んだことのある方でしたら、

 

実はこういう表現はあまりないことがわかるのです。(笑)

 

 

 

 

真吾オジサンがこの短歌を応募したのも、そこが実は自慢のところだったわけですね。(笑)

 

ここのところがなかったらこの短歌をそもそも応募しようとは思わなかったでしょうね。

 

 

「ダメだ、こりゃ」くらいのことでね。(笑)

 

 

 

「コスモスが棚田に咲いていたからといってそれがどうよ?」

 

くらいのものですね。(笑)

 

 

 

 

 

真吾オジサンの棋譜をご覧になられた方は

 

真吾オジサンの指し方に驚かれる方もいらっしゃるかもしれませんよね。

 

 

真吾オジサンの指し方は定跡なんて全く無視した指し方ですからね。(笑)

 

まあ見たこともない指し方でしょうからね。(笑)

 

 

 

 

新米長玉に驚いた将棋愛好家の方はきっと多かったのでしょうけれども、

 

真吾オジサンなどは全くこういう指し方でも一向にアレルギーを覚えることはないですね。

 

 

 

 

こうなっているのは、多分俳句の世界を経験したことがあったからではないかなぁ?

 

と自分では思いますね。

 

 

 

 

将棋の世界ではあまり個性、

 

すなわち棋風を重視するということはあまりないような気もするのですが、

 

俳句の世界では自分の表現でないと、自分なりの俳句になっていないと

 

それでは面白い俳句にならないという面がありますからね。

 

 

 

 

それがいいにしろ、悪いにしろ作者さん自身の俳句になっていないと

 

そうなっていないとどうもこれが面白いものでもないのですね。(笑)

 

 

 

その人となりがどこかに見えないと、どうも面白い俳句にはならないと思いますね。

 

とって引っ付けたようなような俳句ではどうも面白くないものですね。(笑)

 

 

 

 

「この句はいかにもあの方らしいな」

 

こういう俳句こそが好感が持たれますよね。(笑)

 

 

 

 

将棋の世界で言いますと、

 

「この指し方はいかにも大山名人の指し方だよな」

 

といったところでしょうか。(笑)

 

 

 

こうでないとどうも面白くはないと思いますね。(笑)

 

 

 

 

将棋の技量の高さ・巧拙とは別にこういう自分の個性が重視されることが

 

将棋の世界にもあってもいいように真吾オジサンなどは思いますね。

 

 

 

自分なりの将棋を指すことが好意的に受け止められることはもっとあってもいいと思いますね。

 

 

 

 

「最善手を指し続ければ勝利は自然と転がり込んでくるものさ」

 

でもこれはこれでいいのですが、

 

大山名人のように「勝負なんて相手が間違えてくれるものなのさ」と思うて

 

それを最初から当て込んでいる指し方というのも

 

これはこれでもいいと真吾オジサンなどは思いますね。(笑)

 

 

 

 

こういう勝負観といいますか、個性的な棋風・指し方がもっと評価されてもいいと思いますね。

 

技量の高さ・巧拙とは別にね。

 

 

 

 

 

 

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